2026年02月02日

星岡茶寮

星岡茶寮

関東大震災で大雅堂を失った厳しい局面を、魯山人は乗り越えたのだろうか。

魯山人は20歳で上京して京橋を中心に活動するようになってから書画骨董を好きになり、数多くの古美術品を蒐集してきた。好きなものを座辺において楽しんでいたもので、売るつもりではなかった。ところが、足の踏み場もないほどに古美術品が集まり、それを元に「大雅堂」という初めての古美術店を京橋の東仲通りに開店させた。この時代、魯山人は芸術にとって古美術商に加えて「料理と陶芸」という新たな挑戦が始まっている。

魯山人は料理の修業をしたわけではないが、大雅堂の2階で初めて、料理店となる「美食倶楽部」を開業した。その時、魯山人は器を含めて全体としての料理を考え、自然を生かした美食、とりわけ鮮度の良いものを料理し、その出きたてを直ちに食してもらった。

美食倶楽部で使われた器のすべてが大雅堂美術店の古陶磁であった。古陶磁は限りあるもの。大切に使ってはいたものの美食倶楽部の会員は増え続け、古陶磁器だけでは間に合わなくなり、山代の菁華窯で染付や色絵の器を合計4窯分、約1000点の器を制作した。はじめての本格的な作陶である。

この時、大盛況であった大雅堂が関東大震災で焼け落ちてしまう。

大雅堂美食倶楽部が壊滅した頃から魯山人は庭のある広い場所で美食倶楽部を再興しようと考えていた。

『花の茶屋』は立派な会員が出入りするのに、ガラス張りだから電気が灯るようになると外から丸見えになる。土間に長机のテーブルと長椅子では、ゆっくり歓談ができない。しかも高貴な会員の方々がお忍びで来られるのに粗末な茶屋では申し訳ない、「ここでは手狭だな、どこか、よいところはないだろか」と感じるようになった。

京橋の「大雅堂」美食倶楽部の会員であった二條基廣公爵や徳川家達、後藤新平、東京市電気局長の長尾半平や三井商事専務取締役の山岸慶之助、カルピス三島海雲、駐日ドイツ大使ゾルフらが、花の茶屋の常連客となっていたこともあり、彼らにそれとなく建物や庭園などが立派な会員制料亭への計画を伝えた。

弟子の武山(いっ)も大きな料亭で腕を磨きたいと思っていた。

「先生、こんな小さな店では梲が上がらないので京都の瓢亭へ修業に行きたいので紹介してくれませんか」 魯山人の大目玉は覚悟で頼んでみた。

「そうか、今に俺が高級な店を開いて全国から優秀な人を集めて勉強できるようにしてやる。だから心配せずについて来い」とやさしく諭された。魯山人は朝5時に起きて河岸へ買い出しに武山を連れて行くのが日課だった。武山は14歳の時、大雅堂美食倶楽部へ来てから、魯山人の元で腕をみがいていた。大雅堂から花の茶屋、そしてその後の「星岡茶寮」から「銀茶寮」、「大阪星岡茶寮」、「魯山人邸」、そして「福田屋」料理長へと魯山人の意思を受け継ぎ、魯山人の晩年まで行をともにしていく。

こうして魯山人にとって僥倖に巡り合う大きな料亭へ、その大胆な転換を二條基廣公爵ら有力な美食倶楽部会員の援助で進めることとなった。

はじめに紀州徳川家の当主・徳川頼倫侯爵から、…… 「南葵文庫を貸すからあそこで美食倶楽部の復興をやってみてはどうかな。大きな樹木があるので、ああいう樹木を大事にしてくれるなら、改装して料亭を開いてみたらどうかね。」 この南葵文庫(なんきぶんこ)は徳川頼倫(日本図書館協会総裁)が麻布区飯倉(港区麻布飯倉)の自邸に古書の散逸を防ぐために明治35年(1902)に設立した私設図書館。ところが徳川頼倫侯爵は突然逝去され、南葵文庫の話しは流れてしまう。(※南葵文庫の跡地には現在の麻布台ヒルズ森JPタワーが建っている。)

南葵文庫(Wikipedia)

また、大正天皇のはとこに当たり、東京市赤坂区青山南町に屋敷を持っていた中山輔親侯爵貴族院議員(1894-1980)からは、……「青山の御所前にある自邸を使ってはどうか」などという話もあった。

赤坂山王に『星岡茶寮』という東京一の数寄屋建築が売りにでたのはその矢先である。

明治17年(1884)6月に公卿華族の親睦を深めるための清談会食を目的として創建された「星岡茶寮」は明治天皇から徳川家達公爵を会長とする公家や大名一同に下賜された皇居改築用の余材で建てられた。時は大正へと変わり、利用する人も少なくなり、売りに出された星岡茶寮を濱野滋が買い取った。

明治7年(1874)に鈴木岩次郎は神戸で洋糖引取商として塩と煙草を扱い世界的な総合商社となる鈴木商店 を創業した。明治45年、鈴木商店の顧問となった藤田謙一は鈴木商店直系会社東洋製糖株式会社取締役就任するなど鈴木商店関連企業に大きな足跡を残し、大正15年(1926)53歳のとき、東京商工会議所の初代会頭としても経済界に功績を残した藤田謙一は「星岡茶寮」を別荘として所有していた。のち昭和3年(1928)55歳のとき、日本商工会議所の初代会頭に就任、同年4月4日、勅撰を受け貴族院議員となった。

明治時代の星岡茶寮(Wikipedia)

この数寄屋造りの星岡茶寮に魅せられた魯山人は長尾半平の厚誼を受けて赤坂山王台日枝神社境内にあった藤田謙一所有の旧華族会館「星岡茶寮」を借り受けることができた。早速、魯山人は『美食倶楽部経営星岡茶寮再興趣旨書』を各方面に発布して高級料亭を始める準備にとりかかった。大正13年4月20日、協力者中村竹四郎を経営者とし、魯山人が顧問となり、ともに奔走して美食倶楽部会員400名を募ることとなった。

星岡茶寮の一階広帖で開催された第一階魯山人習作展観(大正14年12月25日)図録より

はじめての出資者を社会的に信用度の高い徳川宗家の当主である(いえ)(さと)を選び、中村竹四郎が出資を頼んだ。もともとこの家達公爵を会長とする星岡茶寮であったが、貴族院議長を務めていた家達を竹四郎は有楽社時代から知っており、最初の署名を快くもらうことができたのである。

「この徳川家達様もご出資しておられる星岡茶寮の会員になられては‥‥」という宣伝が効き、募集予定額は3万円を大きく上回り、2日間で5万円も集まり、幸先よいスタートを切ることが出来た。

魯山人は星岡茶寮の会員を募る規定を中村とともに左記のごとく考えた。

『星岡茶寮』再興資債募集規定

甲・一口五百円を五十口で二万五千円…年一割の配当利子がつく。

一年据え置き、二年目より毎年二回抽選で五口ずつ十回で返済。

「星岡茶寮」の会費は永久に不要 

乙・一口百円が五十口で五千円…無利息。

額面相当の料理券を渡し、随時食事の際にその券にて償却。

一年分の会費は不要、次年度より年二十円(前納)

……とした。

星岡茶寮(星岡)

統括料理長・魯山人

広さ約66㎡の調理場には分厚い爼があり、その下を常に湯水が流れ、生臭い鳥や魚の下こしらえは調理場の崖下で行うようにした。特製の電気冷蔵庫と井戸水を巡回させるものが数基ならび、食材により使い分けられた。

冷蔵庫のドアはガラスでできており、中が見えるようになっている。漬物桶はヒノキ、鍋は総て銀製を使う。熱の伝導率が金属の中でも銀は熱の伝導率が金属の中でも最高クラスだからだ。専任の食器係が夥しい皿鉢椀類は下拭き、中拭き、清拭きと3人の女中が一組となって拭いて食器棚に収め、料理に応じて器を選んで出して使った。

これらの使用した食器は食器係だけでなく、活鰹節をかくものは一日中専門にかき、赤身と背の白い方とに分けさせて出汁を作らせた。

河岸で品定めの魯山人(撮影:加谷一三)

料理場は分業のように、爼板で刺身を作る板前、煮炊きする煮方、焼き物をする焼場、そして油場、前菜場、鮨場、漬物場というように部門別に主任がいて、それらの統括料理長が魯山人である。会員一人一人の好き嫌いをファイルした魯山人は決して嫌いなものを出すことはなく、出来上がった汁などの味加減をおこたらなかった。

これによって『書道篆刻の名手・北大路魯山人の包丁による』星岡茶寮は大評判となって従来の料亭とは一味も二味も違う魯山人が細部に気をくばった接客法や、客に予想以上の満足感を与え、客を驚嘆させる型にはまらない創作的な料理を提供した。いやが上にも魯山人の名は上流階級の人々に轟いていった。と同時進行で星岡茶寮で使う器を制作する「星ヶ岡窯」(ほしがおかがま)の築窯も急ピッチで進んだ。

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※ 魯山人の生まれ故郷は上賀茂神社の社家。その大鳥居を出てすぐ左手にあった京漬物店『すぐきや六郎兵衛』が約200年の歴史を閉じて閉業したと、京都の知人から連絡があり、驚いた。すぐき(酸茎)のほか、千枚漬、しば漬や赤カブ、ゆず大根など何度か伺ったこともある創業200年を誇った老舗だったが、2023年2月に閉店していた。この一角にあった「神馬堂のやきもち屋」「みそぎ茶屋」もあった。

すぐきや六郎兵衛

昭和27年(1952)5月14日、魯山人はイサム・ノグチとJ・B・ブラウン(ノグチの弟子)、星岡窯の山越や松島、辻留、そして塗師の遊部重二、柳庵初瀬川松太郎を連れて上賀茂神社に訪れている。神社を参拝後、魯山人の子供ころにもあった門前の神馬堂のやきもちを食べ、すぐき屋六郎兵衛をひやかし、社家の通りへ皆を故郷を案内している。

葉型平向付に白子