2023年11月03日

5  Silk Road:絹の道・鉄の道・陶の道

モンゴルの草原地帯 写真:Wikipedia

 奈良の正倉院には天平時代を中心にした聖武天皇・光明皇后のゆかりの宝物をはじめとする日本産の美術工芸品だけでなく、中国やシルクロードを使って到来した「白瑠璃碗」「瑠璃杯」「螺鈿紫檀五絃琵琶」などのシルクロードから到来した宝物が所蔵されている。

 シルクロードは西のローマ、シリアから、天山山脈をよけて敦煌、長安(西安)洛陽へ、さらに東の端は日本ということになる。

まず、紀元前、海や砂漠を通るのではなく、北側の草原のルートを通った「草原の道」or「鉄の道」(アイアンロード)が拓かれた。東ヨーロッパからモンゴル中国北東部を結ぶ北アジアの草原を中心に絹、馬、武器など運ぶためである。

 その後、「絹の道」or「稲の道」ともいわれ、さらに中国唐、宋代より福建省泉州、寧波を拠点に大量の陶磁器が交易されたので「陶磁の道」とも称された。もっとも陶磁器など大量の荷はマラッカ海峡からインドのゴア経由の「海の道」を利用することとなる。

 「陶の道」では、ペルシャから「緑釉や三彩、色絵など鉛釉」の技術、そして染付に使われたコバルトがもたらされたことで、のちに中国の景徳鎮などから世界初の株式会社といわれる東インド会社(VOC)から大量の染付磁器が運ばれる。

Silk Road
Silk Road
赤い線が 草原の道or鉄の道(陸路)
青い線は海の道(海路)
出典:Wikipedia

隕石が集まり、約46億年前にできた地球。

 その内部には鉄でできた内核があり、その外核は溶けた鉄が高温で対流するため、地球は巨大な磁石(北極がS極、南極がN極)になってくる。地球の32~40%は鉄の重さであるという。

 中国古代の紀元前3世紀初めの戦国時代、七雄が強勢を誇ったが、秦31代君主・嬴政は紀元前221年、圧倒的な武力で中国史上はじめて全土を統一し、38歳で秦を打ち立て、首都を咸陽において始皇帝と号した。

文字、通貨、度量衡を標準化し、大運河、道路などのインフラを整備した。加えて広大で荘厳な阿房宮のほか万里の長城や兵馬俑や自身の陵墓を建設したが、49歳で亡くなった。度重なる戦争や法規制、増税などで人々は困窮して統一後、わずか15年で秦は滅亡した。

 秦の滅亡後、政権をめぐっての楚・項羽との「楚漢戦争」に西楚の覇王・項羽は最後の戦いで『垓下の歌』を詠んで敗北した。勝利した漢・劉邦は長安と呼ばれていた西安を都として前漢(紀元前二〇六~八年)を興す。地方統治に力を入れた前漢は中国で最初の長期安定した王朝といわれている。

 ところが、その漢楚戦争の隙をついてモンゴル草原の統一を果たした遊牧騎馬民族の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が率いる匈奴が40万の大軍で漢に攻め込んできた。漢の高祖・劉邦は32万の軍勢をもって、その支配下においていた朝鮮半島の平壌で迎え撃とうとするが、匈奴軍に「白登山の戦い」(紀元前二二〇年)で敗れてしまう。漢は匈奴の属国となってしまう。

 どうして劉邦の漢は屈辱的な敗北をしてしまったのだろうか。

シルクロードの「鉄の道」の中継地となる匈奴に鉄器をもたらしたのは、鉄器文明を興したヒッタイト文明であった。当時の匈奴はこの優れた鉄の武器をもって漢を圧倒したのである。

地中海と黒海との間に伸びるアナトリア地方(現・トルコ)は、黒海、エーゲ海、地中海に囲まれた「東西文明の十字路」といわれる。多くの民族の興亡が、有史以前より繰り返されていた。

この地の先住民ハッティの高度な製鉄技術を独占したヒッタイト帝国は馬と、鉄で造られた軽戦車を武器に統一した。

鉄をイメージさせる
エジプトの壁画に表現された
ヒッタイト軍の戦車
出典:Wikipedia

 こうなると、大ピラミッドをもつエジプト王国と対等に渡り合うほどの力があり、アナトリア地方を支配していた。エジプトとヒッタイトは平和条約を結び、ヒッタイトが海の民(Peoples of the Sea)によって滅ぼされる紀元前1190年までの間、平和が維持された。

 ここでは金属器を思わせる鋭さをもつ「赤色研磨土器」や「黒色研磨土器」などの注口土器や彩紋を施したものが多く焼かれているが、土を水で練った粘土の板に葦を削って作ったペンで楔形文字を刻み込んだ「粘土板」が一万点以上発掘されている。諸外国との条約や書簡などの粘土板が発見されているが、多くの場合、「日干し」にして焼き、焼かぬ場合は陰干しにして乾かしている。そのレプリカがニューヨークの国連本部の壁に飾られているほどで、平和的外交の条約が交わされていた高い文化をもっていた。

 楔形文字で条約文が記された粘土板
ベルリン新博物館蔵
出典:Wikipedia

 ヒッタイトが滅亡後、紀元前六世紀から前三世紀にかけて黒海北岸のから南ロシアの草原を中心に、高い騎馬技術と優れた鉄器技術を持ってユーラシア内陸を支配した民族がいる。遊牧民族のスキタイで騎馬戦に最も早く取り組んだ民族ある。紀元前7世紀頃から現在のウクライナと南ロシアに相当する地域に住み、前3世紀頃までポントス(ポンティック)草原の領土を支配していた。

 鉄文化は中央アジアのシルクロードより北側のアルタイ山脈の山懐から西方と東方に影響を広げた「草原の道」を通って、匈奴と前漢に鉄をもたらしたのだ。

 同じ製鉄技術が踏襲されたはずだが、漢の製鉄には炭素が含まれて脆かったので主力は青銅製の武器であった。対する匈奴は独特の地下製鉄炉(12基発見されている)によるタタラ製鉄技術によって丈夫な鉄器を造っていたのである。紀元前200年、白登山の戦いに敗れた漢が匈奴に対して、公主(漢天子の娘)を匈奴の単于に嫁がせ、同時に大量の絹、酒、米などを毎年、匈奴に大量の朝貢を献上する屈辱的な条約を結び、低身外交に徹する大きな要因ともなった。

‥‥陶のきた径⑥へつづく



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