「東の瀬戸、西の唐津」といわれたほどに、肥前の唐津焼は桃山時代から江戸初期にかけて200を上る古窯址で生産されて活況を呈していた………。
ところが、江戸時代に入ると有田焼の登場で唐津焼は一気に衰退してしまった。
時は移り昭和時代になると、これらの古窯址が発掘され、唐津焼も陽の目をみるようになってきた。
昭和10年(1935)3月、「土地の人さえ(唐津焼を)知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見当たりません」と、古唐津に興味を示された石黒宗麿先生は唐津を視察、当時の実情を大原美術館武内潔真初代館長や小山冨士夫先生に知らせている。
宗麿先生は唐津の復興を願い、断絶していた唐津藩御用窯のお茶碗窯を引き継いだ中里重雄(太郎右衛門・無庵)を技術面で指導したという。お茶碗窯は倒炎式の石炭窯だったので、「献上唐津のようなものではなく、古唐津を再現すべきだ。それを再現するには薪窯でなくては」と宗麿が指揮して登窯を築かせた。
この年、京都に戻った宗麿は仕事に打ち込むため蛇ヶ谷から洛北の八瀬にあった櫟林を切り拓いて窯を移し、以後、宋代に焼かれた磁州窯に倣った作品と唐津焼に倣って、蹴り轆轤で本歌とは一味違う唐津焼を制作している。どれもが気品ある宗麿の技を駆使した作品を生んでいる。


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「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところだ」と唐津を愛した小山冨士夫先生は古唐津の再興を願って、中里無庵や西岡小十に託された。とくに小山冨士夫に師事し、「土と炎」への拘りをもった西岡小十は「唐津焼の魅力」を最大限に生かして当時の唐津焼陶芸界に新たな潮流をもたらし、続いて田中佐次郎、中川自然坊らが唐津焼隆盛の先鞭をつけたと私は思っている。
「唐津焼なんて売れねーよ。わざわざ唐津に行ったって、商売にならねーよ」と同業者の兄に言われたが、私は商売的なものではなく、ただ古唐津の秘めた重厚さに惚れていたので、真の唐津焼を追及する気持ちのある陶芸家を探しに行った。ところがその頃の唐津焼は土産物屋さんで販売するような表面的な品ばかり、志野・織部の美濃と比べると唐津は寂しいかぎり、であった。
ならば無名でもよい、名利に囚われず、自ら山野を巡って土を探し、窯を築き、薪割りをする、陶芸材料屋を頼らず、自然から享受することに喜びを感じている陶芸家と手を携えて語り合える仲間を探したかったからである。まず西岡小十や田中佐次郎の人と作品に惚れた。

宗麿先生が唐津へ行ってから40年も経ってはいたが、相変わらず唐津はひっそりとしていた。西岡小十や中里隆が窯を築いて間もない頃、小山先生が推薦してくれたこの二人の窯を皮切りに、煙突をみればその陶芸家を訪ねた。ところが本気で唐津焼の真髄を目指す陶芸家はいなかった。
常々、「備前などの焼締陶と同じように自然釉が作品に降りかかる唐津焼は匣鉢を使っていない。直接、薪の炎が作品に降りかかる唐津焼は上釉の中に自然釉が溶け込む炎の恩恵を存分に受けている」と思っていたから商品にするために、ほどほどに焼く唐津焼は好きになれなかった。
1983年のことである。松屋銀座で開催されていた「唐津陶芸展」に100点ほど出品されている現代唐津陶芸家作品の中で一つだけ目に留まった作品があった。唐津焼というより粗土に独創的な刷毛使いの刷毛目だった。暗く沈んだ黒目の素地に白い刷毛目が際立つ存在感であった。こいつは他だものではないな?と感じた。
プライスカードには「自然坊窯 刷毛目ぐい呑 ¥35000」とあった。 はじめて見た名前で高い値がついていたので「60歳ぐらいの陶芸家なのかな」と思った。 それでも気になり、すぐに唐津に向かうことにした。

すでに山陽新幹線が博多まで開通していたが、その日も空路で向かった。
自然坊が生まれたのは佐賀県東松浦郡玄海町である。私が訪問することは自然坊には連絡はしていない。筑肥線新線が開業していたので空港から博多駅へ出て、姪浜か筑前前原で乗り換えて唐津まで行けるようにとても便利になった。唐津駅近くでレンターカーを借りて玄海町へ向かった。むろんカーナビなどない時代だったから地図を片手に走らせた。真っすぐ行くと、いろは島と標識があり、道を間違えたのかと右折した。しばらく下ると玄海町役場がありホッとしてさらに進んだ。玄海町新田にさしかかり、「自然坊窯」と小さい手描きの看板が見えた。ここを左折、農道を通った田圃の向こうに自然坊窯が見えた。
思いのほか若く、背は高くがっしりとした体躯、少しやんちゃな青年にみえた。濡縁から座敷に雑然と作品が置かれていた。聞けば初窯の作品だという。しかしその風貌から、なぜ土産店で売るようなモノを作っているのかと違和感を覚えた。
「独立して陶芸家を志したのに、どうして土産品みたいなものばかり焼いているの?」
「唐津の街と鏡山の土産屋に卸しているのですが、要求されたのが修業先と同じように唐津焼らしいものということで」
「ではこんなの嫌いかな?」と、端に置いてあった朝鮮唐津の花入を指さした。
「自分は好きですが、地元の店では扱ってくれません。‥‥ちょっと待ってください」
ややあって奥からしっかりと焼けた絵唐津茶碗(やや失透した灰釉に鉄絵で円窓が描かれた碗なり)を持ってきた。手入れをして見せてくれたのであろう、しっとりとして畳付は糸切のままで、掌にもつとバランスは今一つだが、艶が抑えられた釉調や造形に初々しさとともに秘めた力を感じて気持ち良かった。
まだ工房も完備されておらず、座敷と縁側に作品を積み上げていた。 一通り作品を見てから、いつものように名刺を差し出した。 なぜか自然坊は相好を崩し、「そうだと思いました」と、ほほ笑んでくれた。
自然坊は一所懸命に標準語を使おうと努力しているようにみえ、「土地の言葉でいいよ。」というと‥‥苦笑いした。「作品が売れないので生活できません。実家の美容院で働いているカミさん(妻の米子さん)に食わせてもらってます。それで今日も留守してます」
負けず嫌いな様子、独立して初窯を焼いたばかり、やりたいことは多々あるのだろうと思った。
「君の刷毛目ぐい呑をみて面白いと思った。刷毛目に使っているような独特の土のように組合で市販されているものではなく、小十さんや佐次郎さんのように自分で探しだし、掘り出した土にこだわるのが、個人作家 だと思う」
「唐津は匣鉢を使わないよね。だから備前などの焼締陶と同じように自然釉が作品に降りかかる。個人の陶芸家を目指すなら、協同組合からの粘土購入もやめて自ら土を探し出し、とことん焼いて、その炎の恩恵を存分に受けたやきもの本来の面白さを創りあげてみたら。‥‥炎でひん曲がっても、とことん焼いたものなら総て引き受けるから」
自然坊が目を輝かせてくれたのを覚えている。
「個人作家としての陶名は自然坊窯の中川憲一ではなく”中川自然坊”でいこう。」
「そんな名前でよかですか?」
「よかよ。早世されたお父上の分も長生きして一緒に切磋琢磨して行こう!」と約束した。

のちに自然坊から聞いた話だが、幼少のころ郵便局勤めの父をなくし、母親に育てられたという。走ることが好きで陸上をやりながら高校を卒業し、人の紹介で医薬品会社に就職した。 数年後、直属の上司だったK氏から、 「人に使われるより、自分の道を勧んだらよか。 唐津には焼き物があるけん、陶芸家になったらええ」 といわれた。K氏は古唐津の蒐集家でもあり、自然坊はその所蔵されている古唐津作品を目の当たりにして、人に使われず自らの体力を活かすことができる陶芸家を夢見て退職することにした、というのだ。
片道20㎞ある唐津焼の窯元「鏡山窯」(井上東也経営)に就職。高校時代、古タイヤを縄で腰に付けて鏡山を上るトレーニングをしたほど走ることが好きだった。仕事にはアップダウンの多い道を往復マラソンで通った。 はじめから独立して陶芸家になるのが目的だった自然坊は鏡山窯の工場主任・馬場氏の元で轆轤や叩き技術の腕を磨いた。 休みの日には、農家から野菜を仕入れて福岡まで行商にいった。持ち前の体力を活かしての独立資金稼ぎである。
「修業3年で独立する」と決めていた自然坊。昭和57年(1982)6月、玄海の自宅に割竹連房式登窯を築いて独立してこの秋に結婚した。間違いなく焼けるようにと、修業していた鏡山窯で使っていたのと同じ粘土を使い、馬場氏に習った成形技術と焼成法で初窯を焚いた。刷毛目だけは愛犬の死を悼み登窯の上にある蜜柑畑に埋めてやろうと穴を掘った土。その土は鉄分が多い土だったが、使えるかなとテストした土、この土で成形した素地に刷毛目を施して焼成すると刷毛目が浮き立った。 愛犬の死と引き換えに良土をえる幸運に恵まれたのだ。
唐津駅付近にある陶器店は2軒ほどだった。ある日、小十や佐次郎の作品を見て参考にしようと思った。そこは作品を納めた店だった。展示されていた田中佐次郎作品をみて驚いた。それまで描いていた唐津という焼物を否定するかのような豪快な造形や釉調だったからだ。

「こうゆう陶芸家の弟子になりたい」と佐次郎の登窯のある唐津市半田にむかった。
しかし田中佐次郎へ弟子入りを願ったが、即座に断られた。
のちにその理由を佐次郎に聞くと「鏡山窯で修業したと聞いたから、修業先に不義理をするようで、弟子入りは許さなかった」というのだ。
しかし自然坊は弟子入りを願い、徹夜で窯の前で座り込みをした。数日後、その自然坊の熱意に佐次郎は根負けした。
「土のよさ、釉のよさを引き出すのは焼き方だ。粘土や窯など君が使っているものを何も見ていないが、今度、君の窯を私が焼いてやるから窯詰めが終わったら知らせてくれ」と佐次郎は言った。
喜んだ自然坊は必死に窯詰めを終了させて連絡を入れた。佐次郎は早速に来てくれた。
「私が焼くから見ておれ」と火入から窯焚すべてをやりのけた。自然坊はひと時も目を離さずその所作に魅入っていた。
数日後、窯出しすると、「焼の重大さ、極意を思い知った」という焼あがりだった。この日を分水嶺に、土を探し、焼に徹した自然坊の新たな挑戦が始まることになる。

(1990年頃)

次回:中川自然坊②…群れずに独尊を貫く陶芸家Ⅱ






