縄文土器は、粘土を紐のようにして螺旋状に巻き上げた「紐造り」によって、創世記の「丸底深鉢土器」が造られた。これは早期といわれる1万年前から6千年前の「尖底土器」で、前期といわれる6千年前から5千年前には「平底の深鉢や円筒形土器」、5千年前から4千年前の縄文中期には「吊手土器」「有孔鍔付土器」や燃え盛る炎を象ったようなデコラティブな造形の「火焔土器」(中部から関東)や「水煙土器」(山梨・長野)という個性的なものが現れた。4千年前から3千年前には「注口土器」などが造られ、晩期には漆塗りの土器や黒色磨研土器が造られている。
昭和11年大晦日、29歳の近藤篤三郎(考古学者)が新潟県長岡市で縄文時代中期の縄文のない火焔土器の陶片を発見した。ここに信濃川流域から出土した火焔土器を中心とした馬高縄文館が開館している。馬高遺跡以外の土器は火焔型土器という。
岡本太郎は「戦後のある日、わたしは、心身がひっくり返るような発見をしたのだ。偶然、上野の博物館へ行った。考古学の資料だけ展示してある一隅に、不思議なものがあった。ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表情だ。人間生命の根源。その神秘を凝集し、引き付けたものに、こんなに圧倒的な美観にぶつかったことはなかった。全身がブブブル震え上がった。」と述べている。(1976年、読売新聞)
縄文土器には火焔型土器のほか、無紋のものや縄目、隆起文、貝殻文、豆粒文など約450種類の装飾があり、北は北海道の礼文島から南は沖縄まで分布している。
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「三内丸山遺跡」「白神山地東麓縄文遺跡」
「縄文人は自遊人だった。」というギミックを用いて「三内丸山遺跡」を中心に、”北東北の縄文遺跡群を世界遺産に”という活動にのって雑誌「自遊人」(2010年1月号)の取材に同行した。
約5500 〜4000年前まで縄文人が定住していた日本最大の縄文集落青森市の「三内丸山遺跡」。さらに近年、15000年前から3000年前までという縄文時代の草創期から晩期まで脈々と続いたという白神山地東縁の山あいにある「白神山地東麓縄文遺跡」が2003年から発掘調査された。青森県西目屋村の岩木川の上流を堰き止めた津軽ダム建設にともなって発掘されたもので、現在の津軽白神湖(西目屋村)にあった17の遺跡である。世界自然遺産に登録された白神山地の麓ということもあり、とくに話題を呼んでいるのは縄文時代中期に造られた人面付注口土器である。大仏様のように穏やかで大きな顔に膨らんだお腹。その中央より下に穴が開いている。ここに注ぎ口はあったようだが欠けてしまっているが、他はほぼ無傷である。発芽竹に近い山梨県北杜市に多くある「出産文土器」や女性を思わす土偶が多い中、これは男性を意味するものだと専門家はいっている。
白神山地の遺跡群から出土した遺物は段ボール箱で15000箱にも及ぶという。住みやすい温暖な気候に恵まれて26万人と推測されている時代で、栗やクルミなどを食べ、山地にはウサギやカモシカ、熊などが多く生息していたおかげでもあった。白神山地から弘前市を経由して三内丸山遺跡へ向かう途中、西目屋村大川添では縄文土器遺跡発掘現場を見学した。
縄文土器には火焔型土器のほか、無紋のものや縄目、隆起文、貝殻文、豆粒文など約450種類の装飾があり、北は北海道の礼文島から南は沖縄まで分布している。
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「三内丸山遺跡」は30万ヘクタールをこえる広大な土地にシンボリックな遺跡の大型掘立柱建物がある。高さが約15メートルで栗の柱の直径は1メートル。ほかに長さ32メートルの大型竪穴住居が建てられているが、集落の周囲の栗の木が塀のように栽培されていた。
この栗の木を建物の材料とし、栗の実は食べ、材木の切り落としは燃料として煮炊きに使い、土器を焼いたのであろう。ここで焼かれた円筒形土器は1500年もの間、作り続けていたという。煮炊き用に造られたシンプルなバケツ型の円筒型土器は北海道函館と北東北の秋田、青森だけにみられ、三内丸山遺跡からは丸木舟で北海道とも交易を行っていた。
遺跡の谷から前期の円筒下層式土器が出土し、遺跡内の盛土という物原からは中期の円筒上層式土器が出土しており、膨大な数の土器の破片や土偶があった。その量は段ボール箱4万箱分あったという。土偶は東日本を中心全国最多の1400点以上が出土し、その九割は物原の盛土から出土している。出土して修復されたものの一部は遺跡内の展示室に展示され、重要文化財に指定されたものは青森県立美術館に収蔵されている。大量に出土した魔除けや豊作を願う土偶、さらに円筒形土器煮炊きすることで長い時代定住生活が営まれていたと考えられる。
「縄文式土器」は初期から晩期まで一貫して焼成温度は600度前後という低火度で壊れやすく、造形以外は一万年以上もの間、全く進歩がなかったといっても過言ではない。日本人の美意識がもっとも明確に現れた桃山時代の鮮やかに花開いた時から今日までが僅か5.6百年なのに、縄文土器時代を生きた太古の人々は、とても我慢強い気質だったにちがいない。漆の特性を知って、土器の水漏れ防止のほか、ひび割れなどを接着するなど補修をしていたが、晩期には塗料として赤土ベンガラや水銀朱を漆に混ぜて赤色漆や黒漆を装飾に活用されている。
青森県西部の津軽半島つがる市木造亀ヶ岡(旧木造町)にある「亀ヶ岡遺跡」は縄文時代晩期の集落遺跡である。元和8 年(1622)、弘前藩(通称:津軽藩)の二代目藩主・津軽信牧が亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したが、築城中に一国一城令が出たため廃城となった。この出土した土偶や土器が考古学上はじめて記録された縄文式土器だという。この丘から多くの甕(カメ)が出土するために亀ヶ岡とよばれるようになったと江戸時代、弘前藩の書物「永禄日記」に記録されているという。
昭和55年(1980)に土器や漆器土器、石器、木製品とともに左脚のない遮光器土偶(しゃこうきどぐう) が発掘され、国の重要文化財に指定されている。縄文時代晩期の「彩文漆塗り浅鉢形土器」は黒漆とベンガラによる赤漆が塗られていた。遮光器とは北方のエスキモーやイヌメットが雪の中で行動するときに着用するスノーゴーグル(遮光器)を連想させたからだという。
取材から11年後の2021(令和3)年7月27日、三内丸山遺跡などとともに「北海道・北東北の縄文遺跡群」の「世界文化遺産」に登録された。
黒田草臣 「陶のきた径」‥‥№23
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