太古の昔より幾多の船が玄界灘を活発に往き来してきたのだろう。
多くの異国文化が九州北部に伝わっている。
『魏志倭人伝』の末盧国は唐津地方のことをいうようだが、それによると3世紀ころにはすでに4000戸の住居があり、漁業も盛んだったと記されている。唐津から50kmほど内陸に入ったところで発見された弥生時代の大規模な環濠集落・吉野ヶ里遺跡では、朝鮮系の無文土器も多数出土している。
朝鮮半島では日本の石器の元となる佐賀県産の黒曜石などが朝鮮半島南西部の遺跡から発見されているから縄文時代中期ごろから大陸との交流も盛んだったことを物語っており、弥生時代になると農業が本格化して“末盧国や吉野ケ里”のような小さなクニが各地で生まれたのだろう。
平成26年(2014)、福岡県春日市須玖(すぐ)で吉野ヶ里遺跡の4倍のスケールをもつ弥生時代の大環濠集落の遺跡が発掘調査された。古代中国の史書「魏志倭人伝」に登場する福岡平野の「奴国(なこく)」の王都とされる『須玖(すぐ)遺跡群』で、約20000ヘクタールの範囲に弥生時代の集落が営まれていた60ヶ所以上の遺構が拡がっていた。
その中核をなす須玖岡本遺跡では弥生時代中期から後期初頭の墓壙が約300基確認され、大量の鏡を副葬した甕棺も王の墓から出土している。5次調査の1号竪穴建物などからは、土製鋳型26点と石製鋳型9点が出土した。
さらに須玖岡本遺跡の北約600mに位置する須玖永田遺跡では弥生時代後期の青銅器生産工房がわが国で初めて検出され、須玖坂本B遺跡では青銅器生産遺物、須玖五反田遺跡ではガラス勾玉などを制作したガラス工房跡など、加えて須玖タカウタ遺跡では多くの井戸の遺構や青銅器の石(石英長石斑岩)製や土製鋳型(矛(ほこ)、剣、戈(か)鐸(たく)が発見された。いずれも紀元前2世紀頃の遺物である。2020年12月には天秤の分銅「権(けん)」に使われた石製品8点も確認され、銅剣や銅戈や銅鐸、銅鏡など本格的に青銅器を生産していたようだ。
銅鐸とともに弥生時代を特徴づける銅鏡は文様の線が細い「重弧文細文鏡」で滑片岩や石英-長石斑岩とよばれる石材の鋳型で国内最古、これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされていたが、紀元前2世紀にあたる弥生時代中期前半から国内でも銅鏡を作っていたことが判明した。
縄文時代には採集民だった人々も、多くの人々は農民となっていった。平均寿命が30才ほどだった縄文人に比べ、稲作を知っていた高身長の渡来人たちは、祭りのために青銅器を伝え鉄器を伝えた。青銅器は銅鐸、銅鉾、銅剣など、鉄は農器具としての鉄器のほか、武器としての刀剣を製造することになり、土地や水源をめぐって争いがはじまる。寿命は延びても戦により平均寿命は20歳前後だった、少し伸びるのは戦乱が少なくなった江戸時代に入ってからである。
中国前漢のことを記した歴史書『漢書』地理志 (かんじょちりし)燕地条に倭人の初出がある。
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
楽浪郡の先の海の中に倭人がいて、百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来た。
当時は漢が支配していた楽浪郡 (らくろうぐん)の海の向こうに 倭人 (わじん) が100余りの小国をつくり、一部の国が楽浪(らくろう)郡に使いを送っていたという。『漢書』地理志 (かんじょちりし)は前漢時代1世紀に書かれた中国の歴史書で国家を形成しようとしていた日本(倭)が初めてこの歴史書に現れた。当時の日本にはまだ文字が無い時代なので史料がなく、漢書に頼るしかなかった。
朝鮮半島では青銅器時代から初期鉄器時代を含めて「無文土器時代」といっている。櫛目が施された櫛文土器時代(紀元前8000年から1500年頃)のあと、中国長江文明の水稲文化をもたらした人々の手によって刻文のない無文土器が造られた。それは直接、遠く中国の地より黒潮の流れにのって伝えられたか、朝鮮半島の南部から玄界灘を渡って「弥生土器」となったといわれている。
2019年、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡や佐賀県唐津市の中原遺跡から弥生時代中期中ごろ(前1世紀ごろ)の板石硯が発見された。この発見で、倭国では古墳時代中期の5世紀ごろからと考えられてきた文字の使用開始時期が数百年早まる可能性がでてきた。板石硯はその後、石川、大阪、楢、兵庫、岡山、壱岐などで続々と発見されているので、弥生時代中期以降に文字が使用されたのは間違いないとされている。
弥生土器には縄文・弥生の折衷の土器も発見されているが、表面は平坦で無紋の土器が多くなった。技術的には縄文よりやや高温の7.8百度前後で焼かれ、口造りは水平になったものがほとんどで、左右均等のとれたシンプルな丸みをもつ薄手の壺、盛鉢、高杯などが多くなった。縄文土器より可塑性のある細かな粘土を造って制作した弥生式土器の壺は数センチから1メートルを越えるものまであり、煮焚きのほかにも多種多様な使われ方をしていたようだ。
弥生後期の1~3世紀に名古屋市熱田区高蔵町の熱田貝塚から出土した赤彩土器は「パレススタイル(宮廷様式)」と呼ばれている伊勢湾岸地域に流行した尾張地方を代表する弥生土器である。東博所蔵の台付壺型土器(重文)や壷型土器(重文)はギリシャのクレタ島にあるクノッソス宮殿から出土した土器に匹敵する美しさなので宮廷(パレス)式というようだ。
ベンガラによる赤色顔料が塗分けて器肌は白色を呈し、直線文・波状文・山形文・班点文などをコントラスト豊かに装飾した台付壷、広口壺、小壺、鉢、高杯などが造られている。
さらに鉄や銅の金属器の作り方、そして織物の技術が伝わってきた。麦、粟、瓜、蕎麦などを栽培し、魚貝、鳥獣、野草などをおかずに南方系の赤い色をした米を玄米のまま蒸して食べていたようだ。
保存のための塩を使って発酵を押さえた漬物、味噌なども覚え、米から酒(酒粥みたいなもの)も造られはじめた。これらから旨味を感じるグルタミン酸ソーダーを採るようになり、頭の発達を急速に促進させたともいえる。その後の文化の発展はめざましく、木の実を食べ、石器を使って狩猟生活をしていた縄文時代に比べると弥生時代はかなり文化の進んだ時代となった。
‥‥‥‥ 黒田草臣 「陶のきた径」№25
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