2025年07月30日

京橋『美食倶楽部』から芝公園『花の茶屋』へ

kouyoukan

20世紀に入って第一次世界大戦は25ヶ国もの世界の主要国が参戦した最初の大戦争となった。大正7年(1918)から4年半という長い間、永い戦いが続けられた結果、イギリス・フランス・アメリカという欧米列強の協商国側の勝利、日英同盟を結んでいた日本も参戦し、ドイツ領青島や南洋諸島を占領した。日本本土は戦場とならず、むしろ戦時景気の恩恵で一時的に好景気に沸いた。しかし第一次大戦後、アメリカ発の株式暴落が世界の大恐慌を引き起こして、わが国にも波及、その不景気で京橋仲通りにある大雅堂美術店の商売は停滞して客足は鈍っていた。

この頃、魯山人の魯卿は細野燕臺を金沢から呼んだ。

「世の中は不景気になったがや」と開口一番。

不景気で大雅堂の2階に会員制の料理屋をと考えていると魯卿は相談を持ちかけた。

「古美術愛好者は一概に食通やし、ここはひとつ、北大路はん、料理方を受け持ったらええがな」

こうして魯卿と竹四郎は大雅堂美術店の2階を改装して会員制料理屋開設に踏み切った。

美食倶楽部大意の冒頭には、

 「大愚良寛禅師は、料理屋の料理、書家の書、詩人の詩はつまらぬものだといわれた。この意は商売的に造られたものは形式のみで、内容に生命がないことを指摘されたものであろう。まことに芸術の意義を簡単に説いた至言であると思われる。」とあった。

美食倶楽部の会員には貴族院公爵議員の二條厚基(あつもと)、貴族院議長の徳川家達(いえさと・徳川宗家16代目)、久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう)、子爵の岡部長景(東条英機内閣のもとで文部大臣)、建築家の吉田(よしだ)五十八(いそや)(1954年日本芸術院会員)、東京市電気局長の長尾半平、東京市長の後藤新平、そして天下無敵と称された横綱太刀山など常連客は天下の名士ばかりが集まった。

大雅堂美術店の商品でもある古瀬戸、古赤絵、阿蘭陀、唐津、織部などの茶碗や皿鉢類。これらの器に京風料理にこだわらず神戸牛のビステキ、支那の燕巣など、吟味した食材に魯卿が腕をふるった。魯卿のいう目も鼻も舌も胃袋も、一時に大満悦が出来るという献立であった。

美食倶楽部が開業してから順調で一年目の大正11年(1922)には会員は90余名となり、開店の11時から夜8時の閉店まで盛況を極めていた。

魯山人最初の妻・安見タミと正式に婚姻届をだし、明治41年7月に生まれた長男櫻一は自宅のある円覚寺門前から歩いて15分ほどの小坂小学校に通っていた。

小袋谷の成福寺、岩瀬の西念寺、山ノ内の東慶寺にあった寺子屋からできた学校が合併してできた木造二階建ての小坂小学校を首席で卒業した。入学した中学校は反対方向の巨福呂坂(こぶくろざか)切通の手前にある建長寺の支援を受けて創立した鎌倉学園に徒歩で10分ほどの中学校へ通いはじめた。

建長寺山門(Wikipedia)

鎌倉学園は鎌倉五山の一位建長寺の隣にあり、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(在職:1246年 – 1256年)は、内乱に勝利し北条氏独裁体制の基礎を築いて幕政を統括する最高責任者だった。それまで木造だった長谷の大仏が台風で倒壊したため、全銅で鋳造し始め、建長4年8月に青銅製大仏を建立した。さらに翌5年(1253年)11月には、建長寺を創建している。建長寺を開山したのは南宋から渡来した大覚禅師(名は道隆、号は蘭渓)で大覚派の祖。建長寺の伽藍配置は中国杭州にある五山第一の径山万寿禅寺を模しただという。径山万寿禅寺は日本の茶道の礎となった天目茶碗の発祥の禅寺である。正式には巨福山建長興国禅寺と号した。

素直で、勉強も優れ、習字も上手だった櫻一。しかし実母タミを追い出した義母セキは普段でも時間をかけて丸髷を結い、着飾ること集中し、掃除もろくにせず、細かいことに気が付かない。セキとの折り合いがいいはずなかった。そのことから通っていた鎌倉学園中学校を中退し、自ら身につける仕事をさがすたびに出て、大正11年(1922)、京都の生母タミの許に身を寄せた。ここで陶業技術を習得するために京都陶磁器伝習所に通った。

この年の7月8日、魯山人は正式に北大路家の家督相続届が受理され、この頃から北大路魯山人と名乗るようになった。

翌大正12年、盛況の大雅堂美食倶楽部では料理を盛り付ける器の不足が問題となり、魯山人は7月から8月の美食倶楽部の休みを利用して、山代の菁華窯で千点を超える食器を制作した。焼成は菁華に任せて8月中に東京に帰った。ところが9月1日に関東大震災が発生し、京橋の『大雅堂美術店』と『美食倶楽部』を全焼してしまう。

のちの調べで関東地方の一府六県の被害は、死者・行方不明者は推定10万5,000人、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となり、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が震災の混乱に際し、発生している。

震災の当日、大雅堂では2階の雨どいが壊れ、一階の屋根の上におかれた「大雅堂」の看板に倒れかかってしまった。魯山人は戸惑う人々の気持ちを察して「水アリマス」と入口横に看板を書き、人々に水を提供した。

ところが、夜中の三時頃、神田佐久間町から火の手があがった。瞬く間にあたりは火の海と化した。

1890年、当時日本一の高さ52m,12階建て凌雲閣が竣工した
関東大震災により崩壊した凌雲閣

商品である古美術品など什器とともに大雅堂が跡形もなかったこの震災をみて魯山人は愕然とした。しかし美食俱楽部の会員からの要望もあり、料理屋だけは再開したいと強く願っていた。

同会員で東京市電気局長の長尾半平からの口利きもあり、大雅堂で女中として働いていたイチが、芝公園弁天池畔にある小さなおでん屋『花の茶屋』の井上家に嫁いでいた。花の茶屋は震災の被害もなかったことから共同経営を申し入れた。

東京市芝区芝公園18号地―1(現在の芝公園四丁目)にある白蓮池には蓮が咲き、紅葉山といわれていた小高い丘(現:東京タワー)には政財界人が集う料亭の「紅葉館」や、フランス料理の「三縁亭」、能楽堂まであった。紅葉山の麓にはもみじ谷、そして桜の名所に隣接している行楽地でもあった。浅草公園や上野公園などとともに芝公園は日本初の公園となっていた。

関東大震災まで紅葉山あった「紅葉館」
(窪田家所蔵)

「美食倶楽部」の名称を使わなかったのには訳がある。

当時、東京市民は全国各地から震災の義援金を受けて時だった。美食倶楽部のままで、東京市民が気を悪くするのではないかという結論に達して、『花の茶屋』の名をそのまま使うことにした。

魯山人は12畳ほどの土間に京瓦を敷き、緋毛氈を敷きつめた。その床に漆のテーブルを置く。路地には点々と和蝋燭を灯し、金沢から取り寄せた百匁蝋燭の照明を灯して食事を愉しませるのである。料理の献立は支那風の桃色の用箋に書かれるなど、魯山人は井上おでん屋を個性ある料理屋風に改装し、震災から3か月後の年末には『花の茶屋』として開店し、会員には25円で10枚綴の食事回数券を買っていただく。

芝公園『花の茶屋』の特徴は、魯山人風に京都と金沢の食材を使って料理し、必ず一品は中国料理に味つけた。これらの演出により『花の茶屋』は、すぐに軌道にのっていった。内容は他の料理屋では滅多に出さないフカヒレ、キンコ、スッポン、山鳩などを料理し、フカヒレの中国料理を古陶磁の青磁の皿や古染付大皿、そして京橋大雅堂の美食倶楽部で使うために菁華窯で焼いたものに盛りつけて客にだした。特上の鮪や生きの良い赤貝を刺身にして、評判を呼んで、人気もではじめ、多くの顧客が出来て大盛況となった。とくに気に入られたのは貴族員議員二條基広(あつとも)公爵や徳川家達(いえさと)、そして東京市長の後藤新平、三井商事専務取締役の山岸慶之助であった。さらに島崎藤村、カルピス三島社長やドイツのゾルフ大使などが常連となって、ようやく菁華窯への支払いを返済することができた。

震災前、菁華窯で焼かれたと思われる第二回魯山人習作展観(大正15年6月5日)の図録作品

『花の茶屋』は芝公園弁天池畔にある小さなおでん屋だった。土間に長机のテーブルと長椅子では、ゆっくり歓談ができない。しかも高貴な会員の方々がお忍びで出入りするのに、ガラス張りだから電気が灯るようになると外から丸見えになる。

「多くのお客様を満足させるには、ここでは手狭だな、どこか、よいところはないだろか」と魯山人は切実に感じるようになった。

☆★☆

魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian

〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL・FAX: 03-6228-7704

営業時間:11:00~18:00 Email: rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp

☆★☆

無二の個性豊かな陶芸家とともに歩む

しぶや黒田陶苑』 

〒150-0002 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F

TEL: 03- 3499-3225

営業時間:11:00~19:00(木曜休)