2026年01月12日

30 日本の六古窯

30 日本の六古窯

 平安時代の後期、律令体制が崩壊し、地方の豪族が台頭する社会へと変化していった。

陶業界においては大陸からの轆轤や築窯などの先進技術を導入し、ヤマト政権や律令国家の管理下で大規模に生産され、国に貢納されてきた須恵器の終わりを告げる。

須恵器に携わった陶工たちは燃料不足などの資源が不足することに加えて須恵部・土師部という特権を失ってしまい流通体制が維持できなくなった。こうした中で須恵器に携わっていた陶人の一部は転業を余儀なくされた。陶工として生きると決めた集団は自ら需要先を考えねばならなかった。

そのような時、武家政権となった鎌倉時代、統一政権の樹立によって長期的な戦乱が減少し、社会秩序が保たれ、農業に従事できるようになったことで、農民たちの使う「甕・壷・擂鉢」の需要が高まってきた。

それらは丈夫さが必要であった。須恵器のような轆轤使わない紐造り叩きという手法で作るようになった。焼成する窯は須恵器窯を引き継いだ穴窯を築いていくが、その多くは山の中、それも8合目付近にトンネンルのような穴を掘った地下式穴窯、さらには溝を掘って半地上式穴窯を築いたのである。

こうした条件下の中で六古窯が稼働した中世にはほとんどの窯で須恵器の先進技術が後退したかのような現象が起こった。それは轆轤を使った均整の取れた薄手の鉢・皿ではなく、仏閣の瓦や土を紐状にした輪積の技法で水甕や種壷、さらに多目的に使われる擂鉢がどの窯で作られていく。

探しあてた土を振るい、水を加えて土を捏ねて叩くなど、轆轤制作より時間のかかる手法だったが、精魂込めて造られた“壷・甕・擂鉢”であった。無骨だが大地に根を張った樹木を伐採して燃料にするなど、必要に応じて労を厭わずに彼らは自然と共存して制作したのである。

古備前 擂鉢

須恵器のように国から注文を受けたのではなく、自らが必要とする生活に密着したやきものであった。それゆえ、端正さはないが、彼らの身の丈にあった生きることに感謝をしながら造られたのであろう。

造りは力強く、大地の土そのままを使ったので石ハゼや思わぬ景色も生まれてくる。この六古窯から生み出された古陶こそ、日本人の陶を愛する心を育てたのではないか。

技術を伝承してくれた須恵器はもとより中国や朝鮮半島の陶磁器のようにシンメトリーではなく、人に見せるような技術を誇るでもない生活の器であった。

日本人の気質なのだろうか、中国では価値をもたなかった珠光青磁や灰被天目、古染付の虫食い、さらに梅華皮や釉の火間、土見せ、くっつきなど、物原に捨てられていたものでも日本人はそれを絶妙の景色としての愛玩してきた。

古信楽壺(室町時代 高41.3㎝)

各地に根をおろした六古窯をはじめとする中世のやきものは必需品ゆえに人の手に触れ、結果的に無釉ゆえに使い手である親から子へ、何気なく代々使われてきた。何百年もの歳月を掛けて変化した土肌に改めて目を凝らしてみると、新鮮な輝きにも似た愛着を感じとることができ、私たちを虜にする土肌の変化に驚く。こうした育て甲斐があるのが“日本のやきもの”であり、日本人にしか理解することが難しい、温かさが感じられるやきものを創り上げたのである。

甕は主として水甕として使ったのであろう。水を貯えると焼締陶の大甕は気化熱を奪う。水を冷やして長持ちさせてくれたのだ。また穀象虫(コクゾウムシ)の繁殖を防いでくれるため、米などの穀物を安全に蓄えることができたと思われる。さらには紺屋の藍甕や甕棺・肥甕としても使われた。壺は葉茶壷、油壷、種壷、種浸し壷、塩壺、時を経て茶道の発展とともに花を飾る花器として、欠かすことのできない水屋甕や水指として茶の湯の世界に登場する。

「擂り粉木(すりこぎ)を食わぬ者はなし」といわれ、どこの家庭でも擂鉢を使って味噌を作り、ゴマ、長芋を擂った。生活に欠かせない必需品であった。

やきものからみた中世とは「壺・甕・擂鉢」の三種を主に造っていた12世紀から、おおよそ茶陶制作のはじまる室町末期の16世紀の中頃までをいい、近世とはその後の桃山時代から明治維新までの時代をいっている。

熟練による手慣れた造作にも美しさは感じられるのは勿論のことだが、“無作為の美”という作り手の息使いまで感じ取れる土肌に出会うことがある。焼成中に意図しない歪みや灰被り、そこに石ハゼがでるのも一つの景色となっている。

これらが風雅な趣になって人々に愛されるほどに、「ワビ・サビ」が生まれてきた。まさに無釉焼締は“唯一無二”のやきものの魅力を私たちに教えてくれるのだ。

薪窯で作品をむき出しにして窯詰すると、強い炎の圧で“火前と火裏”ができ、甕壺などの火前は焼締まって収縮する。焦げや自然釉も呼び込んで火裏より背は低くなる。自然の成り行きだが、これが観るものに“面白さとともに安堵感”さえ与えてくれる。

日本の文化・伝統をもつ地域の活性化を図ることを目的とした日本遺産(Japan Heritage)に、2017年春に文化庁が「日本六古窯」を認定することに決めた。

小山冨士夫が提唱した「日本六古窯」とは、中世から現在まで陶磁器生産がつづいている「常滑・信楽・丹波・備前・瀬戸」の中世古窯址の総称である。桃山時代に隆盛した唐津や美濃は含まれていない。

六古窯のほか‥‥戦後の発見

平安から鎌倉時代に移る12世紀頃、日本は大きく歴史の動いた時であった。焼物の世界でも日本初の官窯といえる猿投窯の焼締め陶の技術が、同じ愛知県の常滑や渥美に伝承し、その常滑の技術が福井の越前、志賀の信楽、兵庫の丹波焼へと伝わりそれぞれ開窯していく。同じ頃、猿投や常滑の傘下にはいらず、須恵器を母体にした窯が現れた。能登半島の珠洲、兵庫県明石の魚住、そして備前などである。その後、各窯場の土質と時代に即応した地域の用途に応じた形が生まれてくる。

日本海側は越前に代表されるが、ほかに石川県の粟津温泉に近い「加賀」もある。赤く発色した甕や壺、擂鉢などを焼いた分炎柱を伴う古窯址などが46基発掘されている。

能登半島の先端にある「珠洲」が発掘されたのは昭和36年(1961)のことで岡田宗叡(古美術が石川県能登半島の珠洲市内に古窯址が分布していることを確認されて地元の研究者とともに「珠洲窯」とした。分炎柱をもたない須恵器系の窯で、珠洲焼は質も良く越後地方でも大量に使われていた。

叩き目文壺 鎌倉時代 箱根美術館蔵(Wikipedia

東海地方では400基を超える古窯址が「猿投」で発見されている。猿投を発見した本多静雄らは昭和38年(1963)には「秋草文壺」(平安)が焼かれた渥美半島全域に古窯址を発見し、「渥美窯」と名付けた。秋草文壷は蔵骨器でありながら中世古窯址のなかで唯一の国宝である。これを契機に雨後の筍のように続けざまに発掘されるようになった。

昭和40年(1965)には焼締陶の甕や白瓷系碗が焼かれていた岐阜県可児市の「古城山窯」、熊本球磨の「下り山窯」(1967)、香川の「十瓶山窯」(とがめやま・1967)、石川県小松市で「加賀窯」(1969)。昭和48年(1973)には磐越自動車道建設によって発見された「赤坂山中世窯」など新潟県と福島県境の五頭山麓古窯址群で分炎柱をもつ瓷器系の古窯址や珠洲系技術を導入した「背中炙窯」も発見された。その後、会津若松市の「大戸窯」(1973)、各務市の「美濃須衛中世窯」(1975)、酒田市の「新溜窯」(1976)、大崎市の「三本木窯」と栗原市の「伊豆沼窯」(1977)、西脇市の「緑風台窯」(1978)、倉敷市の「黒土窯・寒田窯」(1979)、美作市「勝間田窯」(1979)、大仙市の「大畑窯」(1980)、富山市の「京ヶ峰窯」(1983)、大島郡徳之島の「カムイヤキ窯」(1983)、石巻市「水沼窯」(1984)、美作市「勝間田窯」(1985)、兵庫の「東播磨窯」(ひがしはりま・1988)能代市のエヒバチ長根(えひばちながね)窯(1988)、小松市の「湯上谷窯」(1990)、白石市の「一本杉窯」(1992)、能登の「志加浦」(しかうら・1999)、鶴岡市の執行坂窯(2002)、瀬戸市の「中洞窯」(2002)、岩手平清水町の「花立窯」(2007)浜名湖の湖西市「古見窯」(2020)など現在まで約90ヶ所の中世古窯址の発掘調査がされた。

三重県の「伊賀」や備前と同じく須恵器の系譜をもつ岡山倉敷で焼かれた「亀山窯」、兵庫県明石にあった「魚住窯」など全国各地から途絶えていた古窯址が続々と発見されている。

しかし現在もその伝統を守り焼き続けている“六古窯”は、その響のよさから愛陶家たちの会話のなかで日頃から使われており、すっかり定着してきた感がある。

備前・常滑・信楽・丹波・瀬戸・越前の六古窯を中心に日本陶磁史に大きな影響を与えた中世窯の焼締陶を中心に考えてみたい。