2026年07月19日

越前③水野九右衛門‥‥日本六古窯《八》

水野九右衛門

小山冨士夫によって越前が日本六古窯の仲間入りを果たしたのだが‥‥その陰の功労者は水野九右衛門である。

水野九右衛門を知るうちに、備前の桂又三郎、常滑の沢田由治と並び称される古窯研究者だと、確信するようになった。

日本海側最大の窯場・越前を私が訪問するきっかけは昭和41年に鎌倉二階堂に「永福窯」を築窯した小山冨士夫のお宅を頻繁に伺うようになってからだ。

水野先生をご紹介していただき、越前に行く度に宮崎村熊谷の水野邸へ伺うようになり、古越前の壺や陶片を触らせていただき、お話を拝聴することが楽しみとなっていた。40年に渡って「古越前」の研究を行い、多くの資料を収集、記録に残し古越前の再現までされた。その業績の足掛かりに少し触れたいと思う。

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水野九右衛門は越前の旧家に生まれ育ったと思っていた。ところが、大正10年(1921)5月、福井鯖江にある井波酒造の四男浩として生まれたという。生家の井波酒造の創業は天保8年(1837年)、或いは文化3年(1806年)とされ、現在の福井県鯖江市有定町に初代の井波和助が「川島屋」として酒造業を創業したといわれている。

言うまでもなく鯖江は眼鏡創りで日本製めがねの95%を誇る『めがね生産の聖地』だ。井波酒造はこの鯖江の職人気質を体現するように日野川の伏流水を仕込水に使用し、福井の五百万石などを酒米として採用した誠実でぶれない酒質の酒造りをしてきた酒蔵元である。旅の文人がこの酒蔵の酒を愛して、「空高く仰ぐ北斗の七つ星 井波にうつれ名も響くなり」と揮毫して以来、「七ツ星」が登録商標となり、軍用に納入するなど評判もよかった。酒造組合未加入の希少な蔵元なので福井でもなかなか買えないようだが、創業220年というのは、地元愛飲家から長く支持されている証拠なのだろう。

辻岡正美「総叩き出しメガネ」

身につけるもの部門のグットデザイン賞を「やじろべえ眼鏡」で受賞するなど眼鏡を創作する第一人者・辻岡正美氏(鯖江市在住)の眼鏡は人々の視線を奪う…。氏の恩師でもあられる上坂紀夫著の『越前古窯の人―水野九右衛門―』をお贈りいただいた。御著を紐解くと、、、

大正10年(1921)5月7日、鯖江町下深江にある酒造業の四代目を継いだ井波亥乃助(号:三禄)は、明治35年、福井市の名医高桑道準の次女すま(寿満)と結婚して、5人の男子に恵まれた。その四男の浩が、のちに水野九右衛門となる。

母親のすまは明治30年に県立福井高等女学校(現:福井県立藤島高等学校)を卒業した。この女学校で、すまの無二の親友となった三好すてをは、のちに考古学者の高橋健自の妻となる。このことが井波家と高橋家と親戚以上の深いつながりを永く維持させていくことになる。

高橋健自 (Wikipedia)

井波酒造の五代目を継ぐことになる長男八郎が明治大学商学部に入学すると下宿先は高橋家となり、三男幸三郎が明治大学で学んだ時も高橋家の世話になった。のちの水野九右衛門となる四男の浩は昭和14年4月から東京の国士館大学に入学しているが、この時も高橋家にお世話になっている。昭和15年9月、母井波すまの親友・高橋すてをは病で61歳で亡くなった。電報で知らされたすまは10時間以上かけて東京の高橋家へ駆けつけた。その親友の死を悼み、強い喪失感が襲ったに違いない。

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その後、言論の統制、教育の軍国主義化が進めた日本は太平洋戦争に突入を昭和16年に大元帥昭和天皇が許可した。その結果、死者350万人以上ともいわれている。なんと終戦前の1年間にB29による大都市空襲や沖縄戦、原爆投下などでその9割近くが亡くなられている。抑圧された環境で平和を願って耐え忍んでいた国民には惨いものであった。

高橋健自の娘あやは長崎医大共重田中欽二に嫁いでいたが、この戦争で夫と家を亡くしてしまう。

井波すまは普段からお世話になっている高橋家への恩返しのつもりで田中あやに鯖江へ来るように勧めた。子供3人とともに井波家の近くにある誠照寺(真宗誠照寺派の本山)の離れに疎開してきた。高橋家の長男泰郎はあやの兄で6歳年上である。浩は母親の使いで食料品などをあやの部屋に運んだりした。

高橋健自が亡くなったのは1929年〈昭和4年〉、その後、長男泰郎に東京根岸の屋敷は引き継がれていた。健自の書斎、資料室もそのまま残っていたので、泰郎は国士館大学に通う井波浩を何度かこの考古学資料室や美術館に誘ったりした。浩は高橋家での夥しい古陶片や古瓦を観て、その考古学的要素のある歴史に悠久さを覚えたのであろう。これらのことで浩の将来に大きな影響を受けることとなる。

ところが井波浩は肺炎を患って国士館大学を退学、鯖江に帰り静養してのち昭和15年上京して東洋大学予科に入学し、また高橋家に下宿した。

終戦の一年前の昭和19年9月、戦時非常接措置方策により東洋大学文学部を繰り上げ卒業した昭和18年に学徒出陣の招集令状が届き、10月10日、豊橋第一陸軍予備士官学校に入隊して厳しい訓練を受けた。昭和20年4月、軍曹に昇進、6月、曹長に昇進し、四国香川に転属されたが、終戦を迎えた。

終戦とともに根岸の高橋家は強制立ち退きになり、建物は壊された。膨大な貴重な資料などは荏原に疎開させていたが、これらも空襲で焼失してしまった。

井波浩は四国から鯖江に戻ってまもなく、敦賀に住む元小学校校長の福島治三郎からの紹介で見合いをした。お相手は宮崎村熊谷(くまだん)の水野家で、先代の正が昭和19年2月に66歳で亡くなり、妻いゐ(60歳)と一人娘の知子の2人暮らしで、知子の養子縁組を考えていた。水野家は江戸時代からの代々庄屋を務めていた。貞享年間からの『年貢皆済目録』が残されており、天保2年(1831)以降は代々“九右衛門”を世襲し、熊谷の山林から中世の山城があった厨城山を越えて越前海岸の厨(くりや)まで水野家の所有だといわれたほどの大地主。天保6年(1835)に桟瓦葺き屋根の立派な屋敷を建立した。

二人は昭和20年12月6日に鯖江旭町の松阜(まつおか)神社で挙式し、披露宴はもと陣屋町の中に建つ料亭天狗楼でなされた。

越前熊谷はすでに厳しい冬となった、婿養子に入った水野浩は毎日のように雪除けをしたが、好きな国文学の研究書などを読みながらのんびりと暮らすことができた。

その翌年春、雪解けを待って妻知子から「わらびを採りに行こう」と誘われた。ここで浩はわらび採りに夢中になっていた。妻の知子が穴に落ちたのか、悲鳴をあげた。驚いた浩は手を差し出し知子を穴から引き揚げた。知子は何か片手にもっていた。浩はそれをみて、「なんやそれ、やきものでないけ」「ほうですのう。夢中やったで‥‥、」

浩はそれを手に取ってよくみると甕か壺の口のような茶色い陶片だった。袖で土を拭うと固く焼締まった上に薄い緑色の釉が流れ輝いて見えた。

これは大発見だ!と思った。知子が落ちた穴は窖窯の址で細長い溝であった。あたりに散らばっているのは紛れもない陶片だった。学生時代、東京の高橋家で見た陶片や瓦に似ており、歴史に悠久さを重んじる浩の血が騒いだ。興奮冷めやらぬ浩に対して知子は、「こんなもん、ここら辺に灰原が方々にあって沢山落ちていますやん」と平然と言う。

わらび採りに行って偶然見つけた陶片が水野浩を越前焼研究に没頭させることになっていく。それからというもの知子の案内で陶片が多い熊谷の上ヶ平、カマバナ、釜井谷、水上などを散策して回った。

いつしか二人で出かけることが多くなり、‟おしどり夫婦”と呼ばれるようになった水野夫妻。その日は、小曾原(おぞはら)の丘陵の木漏れ日の元で弁当をひろげていた。遠くの野原で子どもたちが石投げ遊びをしている。

目の前にその石?がころがってきたので浩は拾いあげてみた。なんと陶片だったのだ。それもいつも目にしている茶褐色のと違う灰黒っぽい陶片だった。もしかして須恵器? 浩は目を輝かして子供たちに駆け寄り、「どこで拾ったの?」と聞いた。「向こうにたくさんあるよ」という。夫妻は食事をそこそこに子供たちが指さした方向に小走りでむかった。その物原のある頂きは須恵器の古窯址もあった。越前でも須恵器が焼かれていた、その気持ちの高ぶりを抑えながら、帰宅し、いつものように庭の横を流れている洗い場で一つ一つ丁寧に洗った。地図で調べると通称“土屋”(つちや)といわれるところであった。

神明ヶ谷 須恵器窯址

調べていくうちに、ここでは越前須恵器生産の締めくくりとなった9世紀後半から10世紀にかけて平安後期の古窯址(土屋一号窯)などの他、数基が発見された。白い胎土に灰釉が施された甕もあった。のちに『神明ヶ谷須恵器窯跡』と命名され、昭和41年(1966)福井県文化財に指定されて建屋内に保存された所である。のちに丹生山地中部の各丘陵にある須恵器窯は61基以上の操業が報告されている。

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翌、昭和21年12月、結婚一年目を期して、代々世襲の『水野九右衛門』を襲名した。

昭和22年(1947)10月、26歳の水野九右衛門は福井県立丹生高等女学校(現・県立丹生高等学校)の教諭に任じられた。国語科の教師に欠員ができ後任として要請された新任の水野先生はすでに国語と漢文の免許状を文部省から授与されていた。熊谷の自宅から自転車にのって小曾原を越えて江波駅へ、鯖浦線にのって西田中駅で降り、10分ほど生徒とともに歩いて女学校に通った。

学校の休みの日はいつも夫婦そろって古窯址の散策に行くのが習慣となっていた。精力的に宮崎村にあった古窯址の発掘調査に携わったのである。

とくに熊谷には多くの古窯址が眠っていた。その灰原で多くの陶片を拾うようになっていった。だれも古窯址のことを教えてはくれなかったが、義母のいゑが織田焼の職人・北野左仲(1912-1989年)という陶工を教えてくれた。織田村に「八劔窯(はっけんがま)」を開窯していた。「平安時代から鎌倉室町時代には日本一力強い壺甕を焼いていた」ことを北野から知った。

織田町(photo:辻岡正美氏)

こうして益々、越前焼の研究にのめり込んでいった。東京にいる高橋泰郎に「やきものについて詳しく教えてくれる人はいないか」と手紙を書いた。泰郎は東京国立博物館の小山冨士夫を紹介してくれた。昭和22年、九右衛門はリックに陶片を詰めて上京し、泰郎に連れられ上野の東京国立博物館ではじめて小山冨士夫と対面した。

小山冨士夫は越前の丹生の山地が五古窯に匹敵する中世古窯の産地であるとすでに着目しおり、その研究を一歩進めたいと願っていた時に、水野九右衛門のリックから出てきたその陶片に目を輝かした。

「これらは紛れもない中世古窯址の陶片、この研究を続けてください。」と小山冨士夫は水野が発見した無数の古窯址を書きとめた地図を見ながら、古窯址を発掘する時、常に調査のデーターを収集する方法について教えた。窯の実測図や時代別遺物、陶片採集などの重要性を学術的に指摘し、時をみて近々越前に行くことを約束した。

東京から帰った水野九右衛門は小山冨士夫が来る日のために須恵器古窯址と中世古窯址の場所をチェックした。武生市千合谷町地先の丹生山地に源を発し、山間部を縫って北流する天王川を挟んで東は須恵器、西側は中世古窯址ばかりだと確信し、地図に須恵器を〇、中世陶器を●と記した。

戦前の越前には十数軒ほどあった平等の窯元も戦争で廃業に追い込まれ、戦後には土門拳が一躍有名にした甕棺など平等で大甕を輪積み造りをする8代目藤田重良右衛門(1922-2008)。また織田村の「八劔窯(はっけんがま)」で作陶する北野七左衛門左仲(1912-1989)は上絵付けから越前の土味を生かした蛸壺や擂鉢、そして鉄釉や伊羅保釉を使った作品を得意として半農半陶生活を送っていたのみであった。

昭和23年5月末、小山冨士夫は助手として慶應大学生だった佐藤雅彦を連れて鯖江に来た。水野九郎右衛門の案内で平等で大甕造りをする藤田重良右衛門と織田の北野左仲窯を案内され、北野を加えて古窯址を散策した。この丹生の山地で焼かれている織田焼、平等焼、小曾原焼、さらには福井焼とかいわれる中世古窯址を「越前焼」と小山は提案した。その後、小山は助手の佐藤雅彦とともに水野家に一週間ほど滞在して熊谷の古窯址をはじめ丹生の山間にある古窯址を精力的に調査した。

小山冨士夫はこの年の4月から東京国博物館調査課に勤務されたばかり、何か新しい企画展はないかと試案中だった。水野の出現で越前古窯展「北陸発掘陶器特別展」を企画することし、その準備を進めた。水野宅や左仲窯で実見した何点かを正確に指示して出品を促し、箱根美術館からも借りて展示した。水野にはそれまでに発掘に関わった50か所に及ぶ古窯址、その物原からの発掘場所、状況説明など分布図を作成させ、小山はそれらを元に「国立博物館ニュース」8月号に「越前古窯特別展について」と予告掲載した。

7月末、一学期の終業式を終えた水野はリックサックに陶片を背負い、両手に古越前の作品を抱えながら上京し、博物館での展示に携わった。小山冨士夫の計らいで水野の教員としての夏休みを利用した計画でもあったのだろう。展示準備が終わり、労いの積もりで上野の屋台に誘い、焼鳥(とはいえ豚のカシラ肉やモツ)をつまみにコップ酒で乾杯した。こうして8月1日より東京博物館一回の展示室で『越前古窯展』が開催され、小山冨士夫は『福井県丹生山地における越前焼』と題して、「五古窯に匹敵する越前を加えて『六古窯』の名を冠したい」と講演をしている。

小山は経験や勘に基づいた発掘のノウハウを水野九右衛門に指導し、水野も今まで以上に情熱を燃やし越前町(旧丹生郡宮崎村)熊谷で古越前の研究をしながら生涯を越前古窯の研究に情熱をもって捧げていった。

私は東京から車で小山の紹介で水野邸へ何度もお伺いさせていただいた。薄暗い民家の一階の土間を改築して展示場としていた。ここは越前陶芸村からほど近いが、車がないと便の悪い宮崎村熊谷という鄙びた山里を上った所にあった。3mを超す大雪で足止めを食って引き返したこともある。越前山中では北西から強い季節風が吹き付ける猛吹雪、その厳しい自然環境を知らされたのである。

 水野九右衛門は天保6年(1835)の建築という茅葺きの民家を移築した。雪国に耐える太くて素朴な栗や欅の木材で建てられており、これをもとに昭和43年(1968)に熊谷の自宅に私財を投じて木造2階建、瓦葺屋根として水野古陶磁館を開館させた。

熊谷の水野古陶磁館は水野が収集した鎌倉や室町、桃山のいわゆる古越前の甕や鉢などが所狭しと展示された古越前の宝庫である。なかでも印象に残ったのは分厚く巾広い長板の上には壺や陶片がずらりと並べられていたことだ。それらの陶片は選び抜いたのだろう、そのほとんどに祈りにも似た刻文や押文が施されてあったからだ。興味深く見ていると水野は親切に発掘された時のことなどを説明してくれた。

水野九右衛門 昭和60年、出光美術館第6回小山冨士夫記念賞授賞式 (正面に小山冨士夫の遺影)
翌61年にも「復元古窯と越前焼の再生」講演。

12世紀後半、常滑窯からの技術を導入して越前焼が開始されてからの越前古窯址群には200基を超える古窯址が発見されているが、水野は丹生郡を中心として11群からなる160基近い窯跡の存在を確認している。その越前焼研究の成果は、『時代別 古越前名品図録』(1975年)、『福井県窯業誌』(1983年)、『宮崎村誌(上巻)』(1984年)など著書がある。

水野は古越前の発掘調査することだけでは飽き足らず、藤田重良右衛門や北野左仲をはじめとする地元の陶芸家の協力を得て、昭和62~63年(1987~88)には中世越前窯の復元を行い、焼成実験を行うなどの研究を進めたが、復元古窯の3回目の実験前に急逝された。先生の死後、その研究は教え子や西浦武らの陶芸家に引き継がれ、無事に焼成された。

平成元年に水野九右衛門は亡くなられたが、その40年にわたって収集された“古越前コレクション”は越前焼など192点、須恵器と越前焼の陶片など772箱、陶磁器関係書籍428冊など膨大なものだった。これらは「織田歴史館」にあり、平成9年(1997)、ご遺族のご好意で福井県陶芸館へこのコレクションは寄贈されている。

旧水野九右衛門宅(越前古窯博物館内に復元保存)

現在では、平成29年(2017 )10月28日に越前陶芸村に開館した立派な越前古窯博物館が開館され、敷地内に水野九右衛門邸(約230㎡)が移築復元され、越前焼の膨大な資料は「水野九右衛門コレクション」(国の登録有形文化財)として展示されている。