2026年10月28日

古唐津①‥‥その魅力

古唐津絵唐津壺「市ノ瀬高麗神窯」

               

鎌倉の奥座敷といわれる二階堂にお住いの小山冨士夫先生宅によくお邪魔させていただいた。

もう60年前のことである。2階の渡り廊下にある応接間で奥様の御料理をご馳走になった。いつも私の顔を見ると石黒宗麿先生の思い出話をされる。ぐい呑を傾けながらその日は唐津の話だった。

絵唐津向付(焼山窯)

「古唐津には深い親しみを感じる」といわれながら、ご愛蔵の陶片を見せてくださる。どれもしっかりと焼かれた強靭な土味に躍動感あふれる伸びやかな絵が描かれているものばかり。

「石黒さんは松の絵が描かれている古唐津の陶片を京都の古美術店「柳孝」で35万円出して買ったんだ」という小山先生のお話に、「陶片でもそれほどの値がつくのですか」と驚くと、

「皮鯨ぐい呑(小森谷窯)を見つけて買おうと思ったのだが、350万といわれ、とても高くて買えなかった、それを青山(二郎)さんか、小林(秀雄」さんが買われたようだ」などと懐かしんでおられた。それから間もない昭和43年(1968)6月に宗麿先生が亡くなられた時、「松の絵の陶片(甕屋の谷窯)は形見として奥様のとう夫人からもらい受けたと、自著『古陶百話』(新潮社)にあった。

絵唐津向付(焼山窯)高台

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古唐津は素朴とか、強靭というだけでなく沢山の魅力を秘めている。その釉肌は手に馴染みやすく、高台はと返せばどれも潔い高台削りがある。最小限の筆運びに、枯れた中にも抑揚のある絵唐津など、どれも飽きさせない独特の味わいに私は惹かれていた。

その魅力の源はなんであろうか。古唐津に使われる粘土のほとんどは砂岩を粉砕して寝かせてつくることが分かってきた。成形しにくいが蹴り轆轤で素早く成型し、素焼する。そこに植物の灰と長石分多い砂岩をブレンドした土灰釉(斑釉)を施釉していた。素焼した素地との相性が良く、これをずぶ掛けして、匣鉢に入れずにそのまま窯詰する。古唐津は背の低い割竹式登窯で、雑木などを燃料にして一気に高温焼成するので溶けた上釉に燃料の薪の灰が降りかかり、さらに自然釉が浸透しながら焼締まる。こうした素地と炎が融合することで、閑静で飾らない唐津特有の温かな風雅を漂わせる。

絵唐津沓茶碗 銘「磯辺」 (甕屋の谷窯)

古唐津には鉄銹と呼ばれる含有岩鉄を水で溶いて絵具として軽やかに描く「絵唐津」をはじめ、柔らかな炎による枇杷釉の風格漂う「奥高麗」、時と共に滋味深さをます「無地唐津」、使うほどに崇高な深みが滲みでる「斑唐津」、玄海の荒波を思わせ異彩を放つ「朝鮮唐津」のほか、「黒唐津」、「青唐津」、「三島唐津」等々が焼かれている。

17世紀初頭、有田で磁器が創始されて盛業となるまでの50年間で200ほどの窯が稼働し、唐津焼は全盛を極め、東日本の焼き物を「せともの」と呼んだのに対して、京都、大阪をはじめとする西日本や日本海沿岸では焼き物全般を「からつもの」「からつ屋」というほどになり、唐津焼は上野焼、高取焼にも伝播し、のちに京都の「京唐津」や益子などの民芸陶にも影響を与えていった。

「豪放素朴な初期唐津や古唐津をどうにか再興に導きたい」と永年発掘調査、研究された古唐津を再興するために、骨身を惜しまず陶芸界に尽力した古舘九一。

「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところだ」と技巧を優先する装飾的なものより、素朴で自由な作風を好んだ小山冨士夫。

「唐津の高台ほど百が百、千が千、優れた高台を具えて人を喜ばすものはない」と古唐津古窯址発掘時に語った北大路魯山人。

「初期の古唐津を見て驚いた。古唐津は強靭で鋭い、そして明るい‥‥世界中の陶器のうち 何と考えても第一等賞もの」だといい、古唐津再興に尽力し、自らも唐津を陶芸の根幹とした石黒宗麿。

皮鯨ぐい呑

初期唐津や古唐津は大正10年から本格的に唐津古窯址を発掘調査した金原京一(号:陶片1897-1951)をはじめ古館九一(1874-1949)、水町和三郎(1890- 1979)など地元出身の研究者をはじめ、益田孝(号:鈍翁1848-1938)、出光佐一(1885‐1981)、倉橋藤治郎(1887-1946)、小野賢一郎(1888-1943)、田中丸善八(1894- 1973)、鈴木惠一(号:半茶1894- 1965)、広田松繁(号:不孤斎1897-1973)川端康成(1899-1972)、佐藤進三(1900- 1968)、青山二郎(1901-1979)、北村謹次郎(1904 -1991)、久保惣太郎(1926- 1984)、小林秀雄(1902-1983)、白洲正子(1910-1998)、立原正秋(1926-1980)、神山繁(1929-2017)ら、錚々たる愛陶家、数奇者を心酔させ、田中丸善八、出光佐三の膨大なコレクションも生んでいく。

古典復興のうねりの中で陶芸家として前述の石黒宗麿や小山冨士夫、北大路魯山人をはじめ、川喜田半泥子、加藤土師萌、加藤唐九郎、荒川豊蔵、藤原啓、金重素山、楠部彌弌、辻清明らも古唐津に魅せられて唐津作品を制作している。私の知る唐津古窯址発掘に携わった西岡、内山、神田、そして石橋三兄弟らは皆、鬼籍に入られてしまった。

 陶芸家のなかでも古唐津の復興に意欲を燃やした石黒宗麿は昭和4年、初期唐津の飯洞甕窯や道納屋谷古窯址を調査したのに飽き足らず、昭和10年には3月中旬から8ヶ月間滞在して、金原京一、古館九一とともに飯洞甕、道納屋谷とともに、帆柱、道園などの古窯址を念入りに発掘調査した。この4月に「古唐津そっくりな土が見つかっている」と小山冨士夫に手紙を書いている。

小山冨士夫作 唐津酒觴

藩の保護の元に瀟洒な献上唐津を制作していた大島家は明治期に、中里家は大正期に廃業を余儀なくされた。この頃、古唐津の古窯発掘調査で主導的な役割を担っていた古館九一は途絶えていた唐津焼の再興を願い、中里家から材木商・無津呂家の養嗣子にとなっていた次男重雄に声を掛けた。古舘は自ら発掘した古唐津陶片を見せながら多くの古窯址に案内し、金石原で唐津の叩き技法を継承していた窯元で学ばせ、東京で文化的な展覧会があれば同行して勉強させた。熱心な古舘の誘いもあって昭和2年、重雄は十二代中里太郎右衛門(のちの無庵)を襲名した。

従業員5000人を抱え、「肥前の炭鉱王」といわれていた杵島炭鉱の高取九郎社長と専務の古舘九一は窯焚が楽な小型の倒炎式石炭窯を中里家に設置し、燃料の石炭を供給するなど資金面でも桁外れの援助を惜しまなかった。

中里太郎右衛門窯

1935(昭和10)年、石黒宗麿が中里家の石炭窯や作品をみて、「古唐津の良さを知り‥‥古唐津に迫るやきものを再現するには燃料が薪の登窯でなくては‥‥」といいながら登窯を築いて作陶の技術面でも指導し、自ら掘った粘土で茶碗や大鉢などを制作して5月に初窯を焚いた。この時の宗麿作品は当時の古陶磁器研究家・蜷川第一や川喜田半泥子が、宗麿作品を古唐津と見誤ったと『櫟蔭閑話』(北日本新聞)で述べている。

石黒宗麿 銕繪盌 

加藤土師萌は、「初期唐津焼のルーツである朝鮮咸鏡北道の割竹式登窯を実測するなど調査した。咸鏡道の会寧や明川の失透釉(斑唐津)の源流が鈞窯系の窯である」ことを確信するなど唐津焼に関心を持ち、昭和21年に15日間、初期唐津の岸岳を発掘調査しながら、12代中里太郎右衛門親子に釉薬や胎土、叩き技法、焼成法を理論的に助言したという。

こうして唐津焼はただの焼き物としてではなく、時を越えて数寄者に愛され親しまれてきた。

‥‥そこに辿りつくまで、古(いにしえ)の陶工が困難な道を歩んだ結果として得られた賜物だったと思っている。

次回:古唐津②

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絵唐津壺 (市瀬高麗神窯)

北朝鮮では煮炊きにも使い、南朝鮮では貯蔵するための壷だったが、市ノ瀬高麗神の陶工は口縁から五段絞って器形に変化を与えている。これは“席中の主役”をも意味する水指に見立てる茶の湯への美意識からだろうか。
市ノ瀬高麗神窯ならではの品格ある、裾の張ったどっしりとした壷に迷いのない蔓文が伸びやかに運筆されている。赤褐色の素地に失透した赤みを帯びた釉調で、高台より口径が大きく水指に即している。軽妙な筆さばき、出光美術館蔵の絵唐津草つなぎ文水指と同手の壷です。

黒田草臣 2026年10月25日