大陸では女真族を統一した完顏阿骨打(ワンヤンアグダ)が遼(契丹族)と北宋を滅ぼして華北から満州及ぶ広大な領地を支配し金国(1115-1234)を建国した。
当初は女真語で金を意味する按出虎(アルチュフ)とよばれたが、金朝初代皇帝となって現在の黒竜江省ハルビン市の南東に約30kmにある『会寧』を都と定め、2代太宗の時代には『会寧府』と改めた。
1127年(靖康2年/金朝の天会5年)、北宋の首都である開封(かいほう)を占領し、北宋を滅亡させた「靖康の変」で、北宋宮廷の財産をすべて奪い、北宋の皇帝だった欽宗と太上皇の徽宗、そして皇后・皇族3000余名を捕虜として会寧府に連行した。

1138年、会寧府は第3代煕宗(きそう)の時代に『上京会寧府』と改称された。金王朝は中国の華北地方と鴨緑江河口にある丹東から日本海側の咸興以北を支配しており、さらにロシアの沿海州の一部を含むほど広大な土地を有していた。服属国となった高麗は1126年から金への朝貢を余儀なくされ、南遷した南宋は金に対して臣下の礼を取り、歳幣を毎年支払うなど金王朝は優位な条約を結んでいた。
上京会寧府は1153年に現在の北京に金が都を移すまで、首都を上京会寧府に置いて政治・経済・文化の中心地とした。(1130年の会寧府人口は約15万人だと「阿城県志」にある。)
金王朝3代目の煕宗(きそう)は上京会寧府で使用する陶磁器の製造に力を入れようとしたが、黒竜江省付近には主だった窯業地はなかった。北宋代徽宗の官窯といわれた汝窯青磁や定窯白磁の主だった陶工たちはすでに南宋の修内司官窯(老虎洞窯)や景徳鎮(湖田窯)に保護されており、磁州窯、耀州窯などを抑え、河南省禹県古均台付近の鈞窯陶工が選ばれたと考えられる。
鈞窯は唐に始まり、北宋の徽宗時代に河南省禹州市街地の北東部に官窯を設置された。秦が中国を統一する前の戦国時代、鈞台に近かった場所に北宋窯跡があったことから、「鈞台窯」「鈞窯」と呼ばれた。鈞窯といえば銅を含む鮮やかな澱青釉紫紅斑釉が特徴だが、咸鏡北道へは藁灰を主成分とした青白色釉を還元焼成した月白釉は乳白がかった失透性の淡青色釉や鉄絵などが伝わったと考えられる。

この鈞窯にいた陶工集団を2000㌔も離れた金の都である上京会寧府まで強制的に呼び寄せ、金王朝御用の陶器を作り出すために妥当な土地を探させた。
陶工たちは幾つかのグループに分かれて陶業に適した土地を探したのであろう。南下して図們江(豆満江)を渡った会寧川沿いの会寧郡会寧面、同じく会寧市を流れる八乙川の八乙面沙河谷のほか、日本海沿岸の鏡城(キョンソン)郡朱南面、そして明川郡上雩北面などの未知の土地で粘土鉱物を見つけた。
なんと上京会寧府から直線距離にして約600キロ離れていた。
この咸鏡北道西部の吉州明川地溝帯は山林が郡面積の80%を占めており、花崗岩が風化してできた砂目だがアルコース砂岩があった。その砂岩や頁岩・礫岩などの土壌に紅松と呼ばれる大木のほか耐寒性のあるグイ松・楢が生い茂って好都合であった。

陶工は都市から離れた川沿いの山中に集まって生活しながら、まず半地下式無段単室の窯を築き、さらに研究を重ね、有段斜めサマの連房式割竹式登窯を築いたと考えられる。壺、甕、鉢、片口を叩き成形で、皿、茶碗などは蹴り轆轤で造り、珪酸分の多い白濁釉や灰釉、黒釉、鉄絵等の実用的な日用雑器を制作した。
しかし都の上京会寧府(北緯45.5368度)もこの咸鏡北道(北緯約42.43度)も極寒の地ゆえに食料を温めたい。幸いにも会寧、明川は可塑性のない粘土ゆえに耐火度があり、火のあたるところには釉薬を掛けず無釉としたのであろう。
中国陶磁はもちろんのこと朝鮮半島では高麗青磁、そして李朝代の陶磁器は中国陶磁のように土見せのない総釉(土見ず)で、故郷の鈞窯でも高台内まで施釉されていたが、窯を築いた所は厳寒の地(1930年代の年間平均気温:会寧 約5.8℃、鏡城約 6.6 ℃)ゆえに火に掛けられるようにした。
彼らが制作した特徴的な算盤型の壺は口縁が小さく、胴を膨らませ、底から高台脇まで釉を掛けず、茶碗なども高台脇から高台内まで露胎(土見せ)とした。古唐津に影響を与えた高麗茶碗のほとんどは朝鮮半島の南半分で作られている。


井戸茶碗をはじめとする粉引、三島、刷毛目、斗々屋、熊川、蕎麦、呉器などのほとんどが高麗青磁時代から釉薬が総掛けだから、朝鮮半島東北部の咸鏡北道産の土見せのある陶器とは一線を画している。
また古人が「咸鏡道の手なり、」と賞讃した「かがんと手」と呼んだ熊川茶碗。この手は「真熊川茶碗」といわれている。しかし豪放で力強い作風で知られる「鬼熊川茶碗」は、腰から下は無釉で粗い胎土であることから、朝鮮半島北方の咸鏡北道産だと思う。
朝鮮李王朝一の名君と言われ、「ハングル」を創製した四代国王・世宗(1419~1450)が咸鏡道を取り戻し、1437年に豆満江を境界として朝鮮六鎮を支配するようになった頃、李朝の代表的な陶磁器が大きな転換期を迎えた。清楚さ、潔癖さ、純粋さを重要視する儒教(朱子学)が拡がりをみせ、純白な“上品”という白磁が国王の御器に指定された。
朝鮮半島では産出しないコバルト顔料「回青」を中国から高額で輸入して青花(染付)が本格的に作られたのは李朝7代世祖の1460年代末に広州の道馬里窯(とまりがま)で司饔院分院が設置された。四代世宗は崇儒廃仏で高麗時代から一万以上あった寺を禅僧と教宗の禅教両宗に各々18ヶ寺しか存続すること許さず仏教を軽蔑した。

淺川伯教の『東鶴寺トクハクサ史跡記』に、「この寺を通りかかった七代目の世祖が異例的に周20里(朝鮮の一里は400m)の山林をこの寺に下賜した」と記している。東鶴寺は韓国最古の尼寺(現在150名の尼僧)として伝えられている。の周囲に稼働していた鶏龍山窯は世祖によって保護奨励され、刷毛目、三島、彫三島、そして大胆で力強い鉄絵には草花文、魚文、唐草文、如意頭文などが描かれた鉄絵刷毛目、彫花、剥地などが特別に精選された粉青沙器である。我が国では村田珠光による侘び茶が流行りだした室町戦国時代から、唐物に代わって井戸茶碗など武野紹鴎が積極的に取り上げたことで珍重されてきた。(川喜田半泥子が愛玩していた井戸茶碗「紅葉山」は紹鴎所持と伝えられている。)

咸鏡北道では依然として鈞窯に倣った乳濁釉や黒釉、灰釉など寒冷地独特の陶器を中心に焼いていたが、「倹約・清浄・質素・潔白」を旨として民衆を儒教(朱子学)で教化していた李氏朝鮮世宗代にここが李朝の領地となった。人が本能的に不快感を抱く窯焚などの煙、陶工の肉体労働の汚れ(不潔さ)、土に粘性を高めるための悪臭を嫌い、さらに燃料の材木を切り倒すことで野蛮な山荒らしとして嫌われ者となっていった。
金・元・明に従属していた咸鏡北道の陶工たちは、この李朝代に官窯を除く民窯の陶工たちは賤民(奴婢)という自らの意思を持たない最下層におかれてしまう。それはなんと人間以下(奴婢制度が法的に廃止された1894年当時、奴婢5人で牛1頭と交換)として扱われるようになっていた。
次回:古唐津④へ

武雄市武内町内田から同町の赤穂山にかけて採取できた風化長石が梅華皮釉となって釉調の変化をもたらした。やや鍔縁の皿で、高台脇の削りに呼応するかのように梅華皮が姿を見せ、存在感のある高台と相まって迫力に満ちている。見込には5つの目痕が梅華皮のせせらぎに浮かんでるかのよう。






