無釉焼締・南蛮焼の種子島焼の誕生
「日本のやきものには自然の響きがある。樹幹をみるような、岩や鉄をみるような美しい肌をし、人間がつくったというよりも、自然が生んだという感じのものが多い。4千年の歴史を持つ中国の陶磁は偉大で、その表現の鮮やかさ、技巧の冴えは、日本のやきもののおよぶところではないが、日本のやきもののよさは、色・形・文様よりは、土の味、肌の美しさにある。偶然に火の加減で生じた器面の変化、素地の面白さにその特徴がある。」という小山冨士夫は衒いのない素朴なやきものを愛した。
小山冨士夫は美濃・瀬戸・唐津だけでなく中国・朝鮮のほか海外でも発掘調査しているが、焼締陶にも目を向け、備前や信楽、丹波、越前、そして沖縄の首里でも発掘だけにおさまらず作陶もしている。
昭和44年(1969)9月、小山は台北の故宮博物院で『日本にある中国陶磁』について講演するために台湾行くことになった。その途中に沖縄首里に立ちよった。
ここ沖縄には「やむちん」の里に釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)のほかに「荒焼」(アラヤチ)といわれる南蛮風焼締がある。戦前までは荒焼の窯元が8割を占めていたが、戦後の民芸運動とともに施釉された多彩な上焼が、土産ものとして人気となって逆転したという。
小山は無釉焼締の荒焼に惚れ込んで、読谷の新垣栄用窯で作陶する。
この窯では南蛮風の荒焼には新垣所有の首里石嶺の粘土が使われていた。窯の焼く場所によるが、
南蛮の半練(はんねら)風に真っ赤に発色した柔らかな焼締が焼けたのもあり、小山はご満悦であった。
その後、沖縄では小山冨士夫に刺激され、荒焼を追い続けた中川伊作(1899~2000)は1972年から沖縄で南蛮焼締を作陶、1977年から知花城近くに登窯を築き、赤焼けの荒焼を焼くようになった。
小山が沖縄で荒焼を楽しんだその翌年のことである。種子島出身の郷土史家・山本秀雄から、
「江戸末期から明治35年までの数十年間、種子島西之表市住吉区上能野(よきの)で焼かれた能野焼は土灰釉の擂鉢や甕、片口など生活用品を登窯で焼いていました。その能野焼の再興に協力してほしい」と要望があった。それは懇願されたように思えた小山は沖縄で南蛮風無釉焼締の「荒焼」の良さを痛感しており、「南蛮風焼締で良かったら」と申し出ると、「先生にお願いできるものなら何でもいいです」と了解を得た。
昭和46年(1971)、「まず能野焼を一から見直そう」と、小山は種子島に出向いてとりあえず現地で12種類の土を採取して鎌倉に戻り、自分の窯で試験焼を試みた。その中から南蛮焼締にむきそうな耐火度の低いきめ細かな田土を選んだ。小山は学術的にも多忙であったので唐津にいた中里窯の五男・中里隆を誘って築窯に踏み切った。
能野焼の古窯址を調査した時、窯構造は登窯だったが、小山は沖縄首里の蛇窯を参考にした間仕切りのない単房の蛇窯(窖窯)を設計し、西ノ表市に下宿しながら昼は窯を造り、夜は轆轤に励んで、ようやく素朴な“種子島焼”が誕生したのである。
ところが、この年の秋、「心臓肥大症で禁酒禁煙!」と医者より釘を刺されてしまった。
一日60本吸っていたタバコはぴたりとやめた。「タバコの代わりに飴玉をしゃぶっている」と聞いて、備前焼の藤原啓は「ぶっッ」と吹きだした。酒のほうは大酒を飲まぬように謹んでいるが、相手と気が合ったりすると、そのときの気分で、「その限りにあらず」と盃を空けた。人との交わりが好きな小山は断れない性格で、微笑みを忘れない親しみやすい人柄であった。
☆
我が国の戦国時代、とりわけ天正、文禄、慶長、元和という50余年間は多くの武将が国盗りに意欲を燃やしていた。その安土桃山時代に大萱から清安寺付近までの五斗蒔街道沿いに十ヶ所ほどの志野、黄瀬戸、瀬戸黒を焼いた大窯(窖窯)古窯址があり、慶長以後、唐津の連房式登窯を参考にして織部などを焼いた元屋敷窯をはじめとした連房式登窯が築窯された。
乱世とはうらはらに、中世と近世への過渡期にふさわしく政治のみならず宗教、茶道、工芸、書画、建築、造園に優れた人物が特筆すべき新境地を展開したこのころ、日本陶芸は信長や秀吉の奨励もあり、武野紹鴎…千利休…古田織部という偉大なる茶匠による茶道の隆盛とともに一気に頂点に到達していく。
この通称“五斗薪街道”といわれる古窯址の宝庫に土岐市は「五斗薪に陶芸村をつくろう」というスローガンを掲げた。昭和47年(1972)11月、塚本快示(のちの人間国宝)の働きにより、その目玉として招かれたのが小山冨士夫であった。
小山は昭和41年(1966)、鎌倉の自宅に永福窯を築いていたが、この窯を長男の岑一に任せ、自らは五斗薪街道から少し入った静かな谷川のある山間が気に入って蛇窯を築窯した。そこには大きな花の木があり、窯の名を「花ノ木窯」とした。
花の木は楓科の樹木、1966年に愛知県が県民投票により、愛知の県木となった。花の木の横に自宅を建て、渓流が見える風呂がお気に入りだった。その正面の斜面に種子島焼とほぼ同形式の窖窯を築き、工房を構えて昭和48年(1973)5月、初窯を焚いた。
窯床に2、30センチほど川砂を敷き、その下に針の穴ほどの穴をあけたパイプを入れて、窯の床から水が噴出すようにした。このような特殊な窯を築窯したのは、種子島時代の昭和47年の出来事がきっかけとなった。窯焚の写真を撮りにカメラマンが来るというのに、小山は「台風のため飛行機が飛ばず、船も接岸できないため鹿児島に戻って明日にならないと行けない」という連絡が入った。通常ならその日の夜、火を止める予定であった。弟子の中里隆は火を止めようか迷ったが、小山が来るまでもたせようと思い、窯の温度が上がらないようにするため、ビニールの袋に水を入れてから窯の中に投げ入れたり、窯に水を掛けたり、薪をくべて、また水を掛けたりして長引かせながら1200度以下を保っていた。
漸く皆がそろい、撮影も終わった。数日後の窯出‥‥何と照りが少なく柔らかい土味で焼きあがっていた。初窯ゆえに湿気も豊富で窯変も今までにない面白い焼だった。
種子島の土は水に強いのを知った小山は小さなパイプを通して窯内に水が出るように設計して、焼き上がりの寸前に水を散布して、湿気を含ませた窯で焼きあげ、花ノ木窯ではこれを応用して作品の肌を柔らくしたのである。
「一見備前と似てはいるが、備前の土味より柔らかくて変化が出やすい」と、昭和48年の73歳の時、岐阜県土岐の五斗薪に築窯した花の木窯の初窯の感想である。窯詰の時、窯床に赤貝を撒いて8日間窯焚して、水を窯に30分ほど掛け、5日間冷まして窯出しをした。赤、黒、灰、黄というさまざまな変化の景色に小山はご満悦だった。
小山の作陶姿勢は、「ひとつひとつ形や、サイズを考えていたらろくな物は出来ない。轆轤の速度を速めて一気に土を延ばせば、未完でも勢いのいいものが出来る」という、その速度感が口作りや高台に現れている。
これが小山の明快な個性となる。
何度も通った小山の轆轤場を覗くと、気合いもろとも一気に削るから轆轤の横には削りカスに混じって、勢い余って削り損じた穴の開いた茶碗がいくつもあった。そんなことはお構いなし、そのタイミングが合えば、鋭い切れ味の口造りとバチ高台ができ上がる。
元々は京都で修業し、端正に形状を揃えることが出来たが、晩年の小山はその端正さを嫌った。それ故、徳利や壷などの袋ものは左右不対称で、やや重いがおどけた造形となった。小山の人懐っこい人柄そのものの親しみのある大らかな作品だ。酒が入ると、機嫌よく、色紙を持ち出し「酒」「壺」「花」「〇△▢」などと、揮毫していただいたものである。
昭和50年(1975)10月6日、三重の川喜田半泥子13回忌で酒が過ぎたようだ。翌日は朝から雨もようの天気だったが、花之木窯の急勾配な丘を利用して、新窯を計画し、その日は材木を切る指図をしていた。伊賀や信楽の窯では灰が被る火前の還元作用で緑色に発色する。小山は瀬戸の小長曾古窯で施釉によって緑がよく出ることを知っての古瀬戸窯に倣って寸法まで割り出した新窯を築窯予定だった。
ところが、新窯の作業中、「頭痛がする」と言って2階に上がり、自室の長年集めた所蔵品に囲まれた寝室に横になった。昼間であったのに寿子夫人に枕元に電気スタンドを置くようにいったという。夫人はさほど気にせず寝室を離れた後、一人、心筋梗塞のため波乱万丈の75歳の生涯を閉じた。1975年10月7日のことであった。
葬儀委員長は荒川豊蔵。「新しい窯を築きたいと楽しい夢を抱きながら、人間として少しも疑うことを知らなかった純真な、得難い人」と、大正時代に京都で出会ってから50年以上も交友した小山との思い出を追悼した。
小山冨士夫のこと: 黒田草臣ブログ 『四方山話』 (seesaa.net)
五十周年記念 小山冨士夫展…小山冨士夫先生のこと: 陶心 | しぶや黒田陶苑スタッフブログ (seesaa.net)
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