2023年10月20日

「からひね會」を結成した川喜田半泥子と荒川豊蔵・金重陶陽・三輪休和のこと

川喜田半泥子 茶碗 銘:かりがね(俳句では秋の季語ともなる「小雁」のこと)

半泥子の呼びかけで古陶名器再現のため骨身を惜しまず挑み続けていた荒川豊蔵、三輪休雪(のちの休和)、金重陶陽を千歳山に呼んだ。

ときは昭和17年(1942)2月16日から18日までの2泊3日、集った4人で『からひね会』を結成し、桃山再興を謳った。

 千歳山は日本書紀に、「土師部」が朝廷で使う食器を作っていた場所で、半泥子が標高31メートルの千歳山にある加良比神社(乾比根神社)からとって命名したものだ。

彼ら4人の共通点といえば、高麗茶碗や桃山の茶陶を幅広く研究して再現し、

古陶や茶陶に対して深い教養をもった高い視点から現代に生きる創作をめざしたことである。




川喜田半泥子

「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」

泥む‥‥とは物事にとらわれること。

精神的に孤独で積極性がみられないと感じ、半泥子の将来を危惧した祖母の政子は、

南禅寺の勝峰大徹禅師(三二七世)の元に参禅させた。

ある時、禅師が、「今日は信州蕎麦を馳走してやる」といってくれた。

しかし出された蕎麦には虫が入っている。よく見ると蛆虫(うじむし)である。禅師も同じ蕎麦を食している。半泥子はたまりかねて、

「禅師、蛆虫が入っています」

「そうか、蕎麦を食っていた蛆虫じゃ、大事無い、食え喰え、川喜田、虫も蕎麦のうちじゃ」

禅師にそういわれと、仕方なく目を閉じて呑みこんだ辛いこともあったが、半泥子は毎日、坐禅につとめ、雲水と同じ修業をした。

その禅修行中、祇園の芸者に一年分の花代をつけて尼さんに仕立て、ともに托鉢に歩いたりする無茶もしている。

何事にも熱中する半泥子をみて、

「十六代続いた名家をつぶしてはならない。すべて半ば泥むがよかろう」と大徹和尚が『半泥子』と命名したという。

「一般陶工が安易な気持ちから、合わせ土や寝かし土では土味を尊ぶ茶碗はできぬ」といい、

土そのものの味を生かすことに腐心した。数寄者の陶芸と言われているが‥‥

「米国コロラド・スプリングスの真っ赤な土は焼くと真っ白になるが、胎土としては弱すぎる。ジャワのプロモ噴火山の土は黒褐色の釉となる。中国十三凌土や長城の土は単味で天目釉となる。大方の土はそのまま焼物になるし、また胎土として使えないものは、そのまま釉薬になるものがある」などとどこへ行っても土のことが気になるようだ。

地元の津(半泥子持山の千歳山・観音寺山)を中心に伊賀、信楽、伊勢、四日市、伊豆十国峠、美濃、尾張、京都、但馬、備前虫明、周坊大道、長門金峯山と見島、伊予松山、肥前唐津の土を使った。井戸茶碗や刷毛目、粉引などの一部には朝鮮半島中西部に位置する永登浦(ヨンドゥンポ)、驪州、全羅南道の咸平(ハムビョン)、荷苗里(ハビヨリ)、鶴橋面 ( ハッソンミョン ) の土も使っている。

‥‥「おらが宿そこらの土も茶碗かな」と小林一茶をもじって句を詠み、

ある意味、プロの陶芸家より土に対してのウンチクや思いやりがあったように思う。

川喜田半泥子 茶碗 銘:かりがね(見込み)
川喜田半泥子 茶碗 銘:かりがね(見込み)
川喜田半泥子 茶碗 銘:かりがね(高台)
川喜田半泥子 茶碗 銘:かりがね(高台)
2種の土で茶碗を作り、ちぎって半分ずつ張り合わせている

「生きた茶碗を作るには山からとったままを単味で、なるべく生土であった方がよい」という。

自ら土を掘り抱くことが少なくなった現代の陶芸家には、耳が痛い言葉である。

「おいしくお茶を飲める茶碗を作りたい」と、

石はぜやひび割れ、ヘタリなど土の持つ欠点や癖を、見方にしている。

それは土の個性を引き出すため、土の悪さを轆轤の上手さでカバーする型破りの陶芸人生を歩んだのである。

「単味で焼いたやきものは、灘の生一本だ。合わせ土は安物のコクテルだ」と、土へのこだわりを昭和12年発行の、やきもの随筆『泥仏堂日録』(学芸書院)に綴った。

半泥子は轆轤に粘土を置き茶碗を引き上げはじめる。

この時、高台削りで高台径の大きさを決めるのではなく、粘土を引き上げると同時に高台の大きさを決める。

李朝の高麗茶盌にもみることができるが、高台の畳付脇は削らないからだ。

あとは轆轤まかせ、高台脇の削りも歯切れがよく、高台内削りも一回転半という明確な削り。

躊躇せずスピード感溢れる自由な高台が嫌味を感じない半泥子茶碗となる。

「本職の陶工は反対のことをいう。それは味よりも能率主義、素人は“味”本位だ」と「自在自楽」の素人であることを誇りにした数寄者である。

堂々たる自由奔放な作風が半泥子の独壇上である。

「轆轤の廻るまま」を実践し、はっと思わせる高台脇の削り出しには躍動感があり茶碗の究極を求めた。

「欲目かも知れんが、光悦より遥かに良い物が焼けた」と有頂天な時もあった。

田邊加多丸に「東の魯山人、西の半泥子」といわれた川喜田半泥子。

小林古徑が、「お茶を喫める茶碗は現代では半泥子の茶碗」といった。

会津八一は戦災に会い、傘一本と半泥子の茶碗ひとつだけ携えて郷里の新潟へ帰ったという。

「無茶苦茶に作る茶碗の半泥子 これでのむ人茶々無茶苦茶」という半泥子だが、轆轤修業に熱中したころ、寝食を忘れ、夜食のうどんを持ってきたお手伝いも声さえ掛けられず、寒い日に轆轤を轢くために用意した燗風呂の炭火が落ちて、風呂の水が凍るまで稽古したという。

「真によい茶碗を作りたい。ほんとうに茶の喫める茶碗を作りたい」と半泥子の目標は茶碗作りである。

「下手が好き起用は嫌い不器用が好き」と上手下手を超越した風格、風韻のある茶碗を楽しんだ作陶三昧、

指紋が見えなくなるほど轆轤に向かったのである。

半泥子は百五銀行の頭取のほか、電力、保険など多くの会社の重役として経営手腕も発揮している。

金融恐慌、世界大戦を細心綿密な実業活動により潜りぬけた半泥子は軍国主義ではないが、

「愛国八号」となる飛行機の献納や高射砲を寄付し、久居聯隊の全員に鉄兜を配給した。

そればかりか市内の出征者戦没者のところへはくまなく見舞いに歩いた。

昭和5年には旧宅あとに50万円の私財を投じて財団法人石水会館を設立した。

さながら社会事業と地方文化向上運動の本拠として、千歳山内に洋館四階建の千歳文庫を建てた。

石水博物館の収蔵庫である千歳文庫は平成17年11月、「国の有形文化財に登録するよう」答申を受けた。

 半泥子の心を響かせたと思われる陶陽、休和、豊蔵の言葉から各作家を紹介したい。




荒川豊蔵

「甕を作る窯元で地面に埋めた地轆轤を黙々と操るその自然な仕事振りに本当のやきものの仕事はこういうものだ」と豊蔵が感動を覚えたのは昭和三年の五月、魯山人は豊蔵や息子の櫻一を誘って鶏龍山の陶土やカオリンを採掘するため朝鮮半島の古窯址を巡った時であった。

半泥子が16歳の時、藤島武二から洋画を学んだ頃、荒川豊蔵が岐阜県土岐郡で生を受けた。

初対面は昭和12年4月、東京赤坂山王臺にあった山の茶屋で『泥佛堂無茶法師作陶展』(主催:学藝書院)を開催した時で、半泥子(59歳)、豊蔵(43歳)であった。

半泥子は、この2月11日、加藤唐九郎 (39歳)と「不都合に付き」交わりを絶った年で、豊蔵は魯山人の星ヶ岡窯を再び手伝うようになった年である。

豊蔵46歳の昭和15年9月28日、半泥子の千歳山に初めて訪れ、夕べの茶会に飛び入り参加する。

この10月、池田成彬所蔵の乾山自筆の「陶工必用」 を筆写した半泥子は豊蔵と京都の宮永東山とともに京都鳴瀧の法蔵寺にあるとされる乾山窯跡を訪れる。鳴滝法蔵寺の乾山古窯址を調査し、匣鉢の破片と本焼の破片を発見した。

画家を目指して上京するほど絵画に関心をもっていた豊蔵は乾山の茶碗や額皿など多くのスケッチを残した。(昭和17年にも大々的に調査)

昭和5年(1930)、魯山人星ヶ岡窯の研究員だった豊蔵が美濃山中・久々利大萱の雑木林の中で志野の破片を発掘したのは36歳の時である。

これを契機として次々に古窯址を発見し「志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部」などの茶陶が美濃で焼かれたことが実証された。

三年後にこの大萱の谷間で桃山陶再現を旗印に独立、文字通りすべてが試行錯誤の連続であった。

とくに土探し、そして築窯を繰り返した。最初に成功したのは瀬戸黒。

昭和11年9月、豊藏(42歳)はようやく満足するものができ、志野のぐい呑と瀬戸黒の茶碗を持って北大路魯山人を訪ねる。

美濃山中・久々利大萱の雑木林の中で志野の破片を発掘したのは36歳の時である。

この場所を案内してくれたのは地元の中学生・加藤肇で、少年が「ガラガラ」という陶片を一緒に夢中に探し集めた。

豊蔵にはじめて会ったその日から学校の先生のように感じていた肇は家から持ち出した筵を敷いて、谷川の側で昼食をひろげた。

川の流れで洗って陶片を石の上に並べた時、その輝いた志野陶片をみて「美しい!」とガラガラを見直した肇は子供心に思ったという。

荒川豊蔵 志野水指
荒川豊蔵 志野水指

明治27年3月17日、岐阜県土岐郡泉村久尻、母の生家、製陶業加藤与左衛門方で生まれる。

豊蔵の母方は多治見市高田で製陶業を営む陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いだ一人息子であった。

豊蔵は神戸や多治見の貿易商の小僧となるが、京都伏見の初代宮永東山を知り、大正10年、東山を頼って上洛、伏見の東山窯の工場長となる。昭和2年、北大路魯山人の星ヶ岡窯に招かれ、魯山人雅陶研究所の研究員に加わる。

5年、岐阜県可児郡久々利字大萱の牟田洞古窯址で志野の破片を発掘、それまで「瀬戸ものだ」と信じられていたものだから、豊蔵によるこの『志野陶片』の出現は当時の陶芸を知る上で大きな関心事だった。

昭和8年に独立、不便な大萱山中に成功率が低い半地上式穴窯を築き、桃山時代の志野・瀬戸黒の再現に生涯をかけた。

陶芸家による古陶再現の火付け役にもなったのである。

戦時中の辛苦に耐え、桃山陶再現のために茨の道を開拓し、大萱の四季を満喫しながら水車で長石を引き、ゆったりとした手回し轆轤を使って、穏やかな作品を作りだした。

多くの美濃古窯址を参考にして傾斜十五度の穴窯を設計し、昭和8年、大萱に半地下式穴窯を築いて古志野、瀬戸黒の制作に没頭する。

秋から冬にかけて大萱の谷から吹き上げる北西の季節風を利用する焚口は手前の一箇所だけ。

やや内に包み込むダイナミックな丸みのある豊蔵独特の茶碗とともに、志野のあでやかな紅と調和して愛好家の人気の的となり、豊蔵の志野茶碗の温かみ、掌の感触はなんとも艶やかで優しい。

昭和27年、国の無形文化財に認定され、30年に志野、瀬戸黒の技術で重要無形文化財保持者に指定され、46年、文化勲章を受章。

半泥子との初対面は昭和12年4月、東京赤坂の山の茶屋で『無茶法師作陶展』を開催したときである。

昭和3年、春日純精がはじめて乾山の窯址を発見したのをきっかけにして、

昭和5年、東洋陶磁研究所より『乾山焼窯址発見』を表し、陶磁器研究家の蜷川第一(河原書店より『京洛の古陶』(1948)などが発掘調査している。

半泥子も魯山人同様、早くから本阿弥光悦や尾形乾山の奔放な作陶に自らの素人の作陶精神を重ね合わせ敬慕していた。

昭和15年、荒川豊蔵、そして宮永東山とともに鳴滝法蔵寺の乾山窯跡を訪れた。

古窯址を発掘調査した半泥子は匣鉢の破片と本焼の破片を発見した。

倒れていた枯れ竹で茶杓を六本削り、「鳴滝」「泉谷」「法蔵寺」「乾山」「窯址」「かけら」と銘を付けた。

その一週間後には本格的に発掘調査している。

豊蔵はこれを受けて乾山の茶碗や額皿など多くのスケッチを残した。

豊蔵窯を訪ねたのはその四ヶ月後のことであった。

一、やきもの好きの人 

一、やきものを可愛がらぬ 

一、お茶人 

一、茶味なき人   

一、風流人   

一、月雪花に心なき人

一、ひま人   

一、心に閑なき人

この八ヶ条は昭和十七年秋、川喜田半泥子が荒川豊蔵の大萱の陶房を訪ねて作陶した記念に半泥子が豊蔵に贈った「出入帳」の冒頭に書いたものだが、豊蔵窯に来訪する者に対する掟となった。

このとき半泥子は茶碗のほか茶杓や花入を制作し、後日、焼きあがった瀬戸黒茶碗には「宿帳」と出入帳に引っ掛けた銘を荒川がつけた。

豊蔵とは昭和18年にも有馬温泉で遊ぶなど意気投合している。




金重陶陽

「焼き締まった農民的な土肌の味わい。備前のよさは茶陶にあり。土に素直に、火に素直に、火に逆らわず、窯焚の時は窯に仕える気持ちだ」

明治二九年(一八九六)一月三日、岡山県和気郡伊部村大字伊部(現備前市伊部)に備前六姓の窯元である金重楳陽(ばいよう、槇三郎)と母竹能の長男として生まれる。本名勇。五歳の時に焼物に興味を持ちはじめ、粘土細工をしたようだ。

早熟さをみせたのは一一歳の時である。博覧会に亀とカブトを出品して受賞し、周囲を驚かせた。四三年、伊部尋常高等小学校を卒業した一四歳の少年は、父について備前焼の道に入る。

一五歳になると、陶芸家として天賦の才能をみせ、食塩青の技法で、煎茶器を造った。翌年には小豆相場に手を出したり放浪癖のあった父から、「金送れ」と日光から手紙がきたこともあるほど、母と陶陽とで職人を使って職場をやりくりしていた。弟・素山にとっては、「兄というよりむしろ親父みたいな存在だった」という。素山を肩車に乗せて山上の権現様のお祭りに連れて行き、お盆には万燈の松明を作ってやった。食事の時、素山が好きなものがあれば、自分は食べずに素山に食べさせた。

大正七年、大本教に入信し、「陶陽」の号を用いるようになり、彩色備前を作り始め、好況の時代にも助けられて伊部の陶陽として名が知られるようになった。

鳥獣や人物を意匠にした香炉、置物、香合、蓋置などの細工物や煎茶器一式を造り、焼成法も通常の備前のほかに食塩青の艶やかな「青備前」、彩色を施した華やかな「彩色備前」など、素材となったのは可愛らしい動物が多く、十二支をはじめ、獅子、鳩など数え上げたらきりがないほど、どれも名工・陶陽の細工物であった。

金重陶陽 備前小獅子帖鎮(じょうちん)
金重陶陽  備前小獅子帖鎮(じょうちん)

昭和2年、31歳の時、細工物や煎茶器、その後、宝瓶などを造る傍ら、古備前の研究を始めた。土味を出すため良土を探し求め、焼成法にも工夫するようになる。翌年、大日本博覧会に「彩色備前孔雀置物」出品し、「備前飛獅子置物」「彩色備前鬼瓦に鳩置物」を天皇陛下に献上するなど、名声は高まるばかりだったが、陶陽が晩年に、

「今日の私がここにこうしてあるのは、明治の不景気の最中に生まれたことが良かったのだ。生活苦に押し流されて手を抜き、つまらないものを造っていたら、その後、どうなっていたか分からない」と語ったが、陶陽が陶工として過ごした五六年の大部分は経済的に恵まれていなかった。

本格的に轆轤を挽き始めたのは昭和七年、三六歳の時であり、茶道家元三千家の委嘱をうけて古備前風の茶陶を模造品ではなく、茶の精神をうまく移すことを心掛けて手印(てじるし)を土´に変えて茶陶への挑戦がはじまった。

備前焼発祥の地とされる熊山でそれまで見たことのないほど素朴で、男性的な初期備前の陶片を発見し、採掘した原土を篩通しや水簸を行わず、土選りと足踏みで土を作り、数年寝かせた。

川喜田半泥子との出会いは昭和11年に遡る。

毎年五月恒例の旅をしている半泥子は

「頼まれりゃ、越後からでも米を搗きに行くというが、頼まれもせぬのに唐津まで陶車をひきに行く物好きがある」と、

唐津行きの途中、岡山の河合幸三の宅で陶陽作の備前水指を見たのが陶陽と交流するきっかけであった。

九州耐火煉瓦株式会社の専務兼技師長として伊部工場で高アルミナ耐火物の研究をすすめていた河合は絵画、陶芸を愛好されていた。

只底切れのくる田土を、どう扱っているかを見たいと思うに過ぎなかった半泥子は現代備前に興味はない。

ただ、古備前の特に山土で作ったものだけに興味をしめしていたが、河合のお宅で見た備前の水指が、

「陶車で引っぱなしの中々イイものであった。それが金重陶陽さんという方の作と分ったので、矢も楯もなく、早く伊部に行って逢いたくなった。」と「泥佛堂日録」にある。

こうして半泥子は備前に昭和11年から24年の間に6回訪問して制作もしている。

昭和11年より交流が始まり、この年、半泥子の千歳窯を訪れ作品制作。

昭和13年(1938)岡山の多田利吉を通じて阪急電鉄社長小林一三の異母弟田辺加多丸の知遇を得て、

この年の一月に大阪阪急百貨店で初の個展が実現した。川喜田半泥子来訪制作。半泥子の協力で東京資生堂ギャラリーにて個展開催。

昭和14年(1939)も川喜田半泥子と相互に行き来しお互いに制作している。

この年、陶陽は運道の棚で素地に稲わらを巻いて匣鉢に入れた緋襷の焼成に成功した。

昭和15年(1940)6月に半泥子は5月に引き続き金重陶陽を訪ねている。

陶陽とその弟・素山らとともに伊部の南に位置する邑久郡虫明に行き、廃窯になっていた虫明焼の復興に情熱を注いでいた岡本英山を訪ね、

半泥子は、きめの細かな虫明の土と兵庫県二見の土をブレンドして制作するなど陶陽との交流は多かった。

昭和一六年、弟・素山の元に招集礼状が届いた。大本教の教主・出口王仁三郎は「この戦争は負ける」と予言していた。陶陽は、本気で考えた。「負ける戦争ならば、死ぬものと覚悟せねばならない。弟(素山)がいたら(一年に)二窯焚けるのに、一窯で生計を立てるのには、どうしたらいいだろうか」こうして40日間、じっと座ったままで窯の構造を変えることを考え続けた。そのお陰で小さいが新しく窯を築き直し、窯出すると考えていたよりも素晴らしい作品が出来上がりだった。カセ胡麻や自然桟切や窯変の作品が生まれたのだ。

金重 陶陽 備前耳付花入
金重陶陽 備前耳付花入
昼夜、焚口近くに転ばして焼成する。
作品の上に赤松の割木が燃え盛り千変万化な景色を生む「窯変」



三輪休和

「時を経ても自然と共にあり続けるという不走時流の精神で時代に流されず己の考えを常に重んじて歩む」

明治27年(1895)、4月20日、十代休雪(邦廣)が父九代三輪雪堂、母コマの二男として阿武郡椿郷東分村無田ヶ原に生まれる。

初期の古萩から端正な綺麗寂の遠州萩に傾いた萩焼を「萩はこうあるべき」と自らの作品で提唱した休和は内なる人間形成にも努め、十代休雪として活動を始めたのである。

「窯日誌」(昭和3年)にはその日の天候から風向き、大口(胴木の間)にはじまり、一番から五番までの窯詰した作品名と各々の窯焚きから仕舞までの各窯の薪投入量、焼成時間、焼き上がりの良否、所見や反省なども毛筆で記されている。万事を科学的に積み重ねたのだ。その結果、独特の枇杷釉、白萩釉を完成させた。これらを自家薬籠中のものとして十代休雪の人柄そのままの柔らかく暖か味のある温和ながら茶陶として揺るぎない白萩作品を誕生させていく。土灰釉に藁灰を調合して施釉は厚めに二度掛けして変化をみせた。

三輪休和 萩花入
三輪休和 萩花入
窯詰め時には真っ黒な藁灰を施釉し焼成すると真っ白に
‥‥白萩釉を際立たせる黒い見島土が覗いている

四谷の三井邸では大正名器鑑の古萩三碗の一つ「田子の浦」を拝見する機会をえた。その印象を、

「容器は曲げ物で表に田子の浦、蓋裏は玄々斎の歌銘、小砂を多く含みやや長方形、削りはすべて楽焼風の作行にて軽く、釉は枇杷色を呈している。さすがは箒庵先生の眼識に叶った名器である」と窯日誌に書きとめている。

さらに家従にやらせず三井翁自らが、蔵出しから真田紐がほどけゆくすべての所作をいとおしく楽しむように仕舞いまでする。息をつめ、くいいるように見まもる休和の前で今をときめく財界の大物が一人で扱った名器への尊重の態度が休和にとっては、大茶人にこれほどまでに愛される名器を作った陶工こそ作家冥利に尽きるとおもった。それは夢のような感激だった。

鮮烈な刺激を受けた休和は名器に興味を示し、名家を訪ねるだけでなく、窯焚中でも売り立てがあると火を消してでも見に行った。古萩のみならず信楽、伊賀、南蛮、織部、乾山、阿蘭陀にまで多岐に渡って興味をしめしたことを窯日誌に書きとめている。こうして培われた美意識が、

「品格の高いものを見つづけたい」

という姿勢となり、その後の作陶を大きく方向づけることになった。

三輪休和 萩茶碗
三輪休和 萩茶碗
周坊の大道土をベースに長門金峯山と見島土を
ブレンド、枇杷色の温かみのある井戸茶碗が誕生した

「鑑賞の目を養うにはいいものを直接、手にとって見ることでごわす。悪いものの記憶は片っ端から消してしあむ。変なものは絶対身近に置かないというだけの心の節度が必要です。茶碗の格といいますか、気品はおのずとわかってくる。口づくり、高台ひとつをみても、同じ型のものなら名工の作と凡手ではどうしようもない差がみえてくる。ああここまで解ってきたかな、ということが一生つづくわけでごわす。芸の底の奥深さ、ゆかしさとでも申しましょうか」(昭和45年4月、朝日新聞社『重要無形文化財技術保持者(人間国宝)認定にあたって』より)

魯卿あん 茶室の床
魯卿あん 茶室の床



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