大昔、人々の住まいは洞窟から竪穴式へ、日本では旧石器時代後期から地面を円形や長方形に50センチから80センチほど掘り、柱を建てて垂木をつなぎ合わせて屋根を葦やススキ、樹皮などで葺いて竪穴式住宅を完成させ縄文時代から弥生時代の遺跡で多くみられる住居となった。
ヨーロッパでは半地下式の住居の壁と床には土と粘土が使われている。
とくにイラン、トルコなどの西南アジア、北アフリカのモロッコ、サハラ砂漠のあるマリ共和国、そしてメソポタミアなど降雨量が少なく湿度の少ない土地で、早いところでは一万年ほど前から練った土を長方形の木枠に入れて一週間ほど乾かして日干し煉瓦を作った。
土に形を与えた最初であろうか。太陽熱を利用した天日でこの定型成形した日干しの煉瓦(クレ)が住居に使われている。
1928年、イギリスの考古学者レオナード・ウーリーはイラクの南部のユーフラテス河口付近の丘の下に日干し煉瓦と中には野焼きされた煉瓦で頑丈に建設されていた“古代都市ウル”を発掘した。
ここは聖書に“アブラハムの故郷”と記されている富裕な中心都市・ウルの街である。
ウーリーはそこで盗掘屋の取り残した粘土版文書(最古の文字 “楔形文字”)を見つけ、旧約聖書の神話を紀元前2000年頃の事実としての歴史に変えはじめた。
ユダヤ人の祖であり、キリスト教、イスラム教に登場する信仰の父アブラハム(アブラム)はカルデアの故郷ウルここで生まれ、75歳の時の時、ここを離れてカナンの地へ旅立ったとされている。
1934年にはフランスの考古学者のパロの手で王国マリの古代都市ハランも発掘され、マリ宮殿の図書館に収納してあった2万枚以上の粘土版の楔(くさび)形文字が、古代バビロ.ニア史について語りはじめた。
石が豊富なエジプトでは、偉大なファラオ(王)たちが神殿やピラミットを石を重ねて建造したが、石に恵まれないメソポタミアでは日干し煉瓦が多く使われている。
湿度の多い日本の風土では日干し煉瓦は難しい。ところが、この地方特有の石灰質の土は水を含むと凝固し、焼かないでも煉瓦になってくれる性質の粘りがあった。バビロニアの粘土は風雨の影響をほとんど受けず、楔形文字の粘土版などの制作を可能にしたのだ。
古代エジプトにはナイル川讃歌が伝わる。
英国博物館蔵には『ナイル川讃歌(Hymn to the Nile)』14節が伝わっているが、その第一節は、
「ナイル川よ、あなたに挨拶を送る! あなたはこの土地に現れ、エジプトに命を与える!
神秘的にあなたは暗闇から出てきて、この日、それが祝われている! (太陽神の)ラーによって作られた果樹園に水を撒き、すべての家畜を生かせるために、あなたは地球に無尽蔵の飲み物を与える! 空から降りる小道であり、セブのパンとネペラの最初の果物を愛し、あなたはプタの工房を栄えさせる!
また、古来より「もし、ナイル川が無ければエジプトはあるまい。ティグリス・ユーフラテス川が無ければメソポタミアは存在しえなかった」といわれている。中国の黄河同様にこの地方の大部分は豪雨などの定期的な大洪水によって、山脈から運んできた沈泥からなってそれぞれの文明を生む恩恵をもたらした。
エジプトでは麦の刈り入れが終わった五月ごろから上流では雨季が始まり、モンスーンによりエチオピア高原の大草原に降った大量の雨がタナ湖に溜まり、青ナイル川として流れ、さらにケニア山、キリマンジャロなどの雪解け水がビクトリア湖に流れ溢れ出て白ナイル川となり、青ナイル川と合流してナイルの水量を増やす。雨季と雪解けが、同時期に起きる為、7月、ナイル川の川幅は10倍になり、水量が約3倍になって夏に氾濫を起こしてしまう。
こうしてナイル流域は黒い肥沃な土をもたらして農耕や灌漑を可能にした。このナイル川の恩恵を受けるケメト(黒い大地)は、文明のはじまった古代エジプトそのものを指していた。砂漠は赤い大地に対して、雨が降らないのにナイルは増水することは神の仕業だといい、ナイル川の恩恵を受けない荒地は周囲に広がる赤い大地・デシェレトであった。
大河の氾濫は恐ろしいものだ。
しかしこのタイミングを知らせるものがあった。6月、麦を収穫したケメトの東の夜空には地平線から日の出前にシリウスが現れてくる。太陽を除いて地球から見える最も明るい恒星“シリウス”が、古代のエジプトでは最も初期の天文記録にも記録されて、7月のナイル川の増水期を知らせてくれる星として、非常に重要な働きをしていた。
やがて9月ごろに、水量が最大となり、約4ヶ月の氾濫が終わり、これによって肥沃な土壌に生まれ変わり、麦などの種まきの時期を迎える。旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する大洪水にまつわる「ノアの方舟」(はこぶね)も40日間大雨が降った物語として伝えられた歴史的事実であった。
大河が良質の粘土層(砂より細かく粘土より粗いシルト・沈泥)を運んで肥沃な土地を拡大し、川に浮く不純物は水が引きつれ運びさり、小さな石や砂は川底に沈んでしまう。これらの雄大な流れは自然の力によって徐々に水簸を繰り返し、ゆるやかな流れに乗って運ばれてきた粒子の細かい良質の黒い粘土は、農耕や土器づくりに最適だった。
こうして農業経済の発展を基盤に古代都市が栄え、“文明の曙”を象徴する都市の建築が、日干し煉瓦で造られ、精神文化の成果が「粘土版文書」(楔形文字)に刻み込まれ、その経済の繁栄を背景としてやがて、陶磁器が作られるようになった。
氾濫に見舞われ続けていたナイル川流域には1970年、エジプト南部に巨大なアスワン・ハイ・ダムが完成し、ダム湖ナセル湖となって以後、氾濫は起きていないが、農耕には肥料などが必要となった。
ノアの洪水後のBC六一二年、カルデア人よって建国された新バビロニア帝国の王(ノアの子孫ニムロデ王)が自身の力を誇示するために旧約聖書の「バベルの塔」で有名な聖塔を造営している。
天まで達するような高塔を築く人の奢りに神が怒り、人々の言葉を混乱させ、築くのを辞めさせた。これによって世界中の言語が誕生したとされている。
ピーテル・ブリューゲルの描いた『バベルの塔』は巨大な岩山を利用して、雲にそびえる高層の建築が石や煉瓦で造られる過程をダイナミックに描いてあり、観る人の胸を打つが、実際にはティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯の国バビロニアの人々が粘土と日干し煉瓦で造った聖塔だった。
児童書の古典として親しまれ、小学生に人気のあるファージョン女史の童話『ムギと王様』には、「ピラミッドに葬られた一握りのムギが何千年もあとに芽を吹き出し黄金の穂をつけた」という寓話がある。
石材の豊富なエジプトでは五千年前の石で造ったピラミッドの建設には、それほど多くの日干し煉瓦が使われていないようだが、内側の壁に使った日干し煉瓦の中の色々な穀物の種が、紀元前のエジプト農業の実態をも明らかにしてくれた。
日本のように湿度の多い土地では主だった日干し煉瓦はみられない。
おそらく焚き火の跡が堅くなったことや焚火の側で土をこねて粘土細工したものを焚火に放り込んだものが固く焼きしまったことをヒントに、縄文人が土に熱を加えれば固くなることを覚えたようだ。定住生活を営むようになった人類がはじめて化学変化の応用を利用して「縄文土器」を作りあげていく。
良い粘土とは、大地の風化作用により粘りがでて触れるだけで、指紋まで写し取ってしまうような可塑性のある土のこと。
このような土が焼物には好ましく、水を加えた粘土を良く練って成型をしたと思う。
ところが制作した土器が乾燥や焼成の段階でひび割れてしまったりすることが多かった。
世界を眺めるとこれを防ぐ為、粘土の中に藁などの植物繊維、樹液、血液、カンナ屑、草食動物の糞、果実の種や貝殻の粉末、木炭、羽毛などを混入させていた。燃料は藁、草、樹木など燃えるものなら何でも、アフリカや一部の東南アジアではラクダなど草食動物の糞を燃料としていた。草木の火力は強いが、すぐ燃え尽きてしまうが、草食動物の糞の方が保温力に優れていたからに違いない。
‥‥陶のきた径④につづく
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