朝鮮半島が前漢の武帝に侵攻され支配を受ける以前の古朝鮮の末期のことである。
満州の東部地区(中国吉林省)にあるアムール川の支流・松花江(しょうかこう)一帯の平野地帯で勃興した扶余(プヨ、~346年)は農耕と牧畜生活という半農半牧のツングース系の都で、人々は狩猟と馬の飼養や毛皮などで生活していた。
古代中国の伝説上の君主・黄帝を子孫に持つ高朱蒙(チュモン)は北扶余の将軍解慕漱(へモス)と黄河の水神・河伯の娘柳花(ユファ)との息子だとされている。
”好太王碑”に「始祖の鄒牟(シュモン)王を顧みれば、聖なる始祖王は北扶余より天帝の子、母を河伯の女郎として 卵から生まれた」という一文が刻まれている。
帯素(テソ)や曷思(カルサ)など7人の扶余の王子たちと対立したことで逃れ、紀元前37年、東南の五女山(ごじょさん)に亡命し、のちに高句麗を建国したとされている。(北扶餘の古記によると、北夫餘に続き卒本夫餘を建国したとある)
建国初期から小国を征服してきた朱蒙は高句麗の東明聖王(トンミョンソンワン)となって、西暦3年、卒本(ジョルボン)から現在の中国吉林省集安市に位置する鴨緑江周辺の「国内城」を都として王を中心とした中央集権化を強めた。戦時に備え、209年に集安市の丸都(がんと)山城を築いて遷都した。
313年に、漢・後漢・魏・晋の各王朝の朝鮮支配の拠点であった楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部(北朝鮮)を領有し、さらに南下して314年には帯方郡を滅ぼし、中国勢を半島から撤退させて領土を拡大していった。
ところが、4世紀中頃、16代故国原(ゴググォン)王の時、西から燕の侵攻を受けて大敗、燕の朝貢国となり、南の百済の近肖古王からも侵攻を受け371年に王は戦死してしまい、軍事力が低下してしまう。その翌年の372年、中国から仏教文化も百済や新羅よりもいち早く伝わり、これを厚く保護した。
この高句麗が反撃に転じ、西の後燕、南の百済に侵攻するなど快進撃を見せたのが第19代の広開土王(好太王とも。在位391~412年)である。
諱は高談徳(コ・タムドク)で391年に王位に就き、みごと高句麗を中興した談徳は東西南北に広大な領土を広げた王という意味の広開土王、または好太王といわれた。長男の20代目の長寿王(チャンスワン)は427年に首都を平壌に移し、朝鮮半島の大半をおさめて高句麗の全盛期を築いた。
やきものに目を転じれば、朱蒙が君臨した集安の高句麗前期遺跡の内部にある埋葬室の屋根には粘土瓦が葺かれていた。そのころから「灰黒色無釉陶器」や「灰白色硬質無釉陶器」の還元焔焼成による中国華北の焼締技法を古代朝鮮の三韓の中ではいち早く取り入れていた。
その影響で朝鮮半島の南部でも漢の支配を受けていた北部の「楽浪土器」の影響を受けて焼締陶の「陶質土器」が焼かれるようになったといわれている。
とはいえ高句麗は百済や新羅、伽耶などが築窯した長胴式窖窯(日本でいう蛇窯のような細長い窖窯)による「陶質土器」ほど発達していない。
高句麗では多くが平窯だったので窯詰めされる数も少ないからであろうか。
3世紀初頭、高句麗が吉林省集安に遷都した国内城などでは「黒色瓦質土器」、「灰白色瓦質土器」が焼かれた。4世紀前半頃からこの手の瓦の使用が始まり、427年、再び遷都した平壌期では酸化焼成による「赤褐色瓦質土器」の瓦が平壌城に葺かれている。
叩きの平瓦とともに漢で流行した雲気(うんき)文風の巻雲(けんうん)文ほか、高句麗瓦の代表的な蓮蕾文(蓮の蕾)、忍冬(にんとう)文、鬼面文、宝相華( ほうそうげ)文などが施された丸瓦が葺かれているが、その後、これらの瓦つくりが新羅や百済に影響を与えていく。さらに海を渡って我が国初といわれる飛鳥寺など飛鳥時代の古代瓦にも高句麗瓦は影響を与えた。
国交のない北朝鮮に埋もれているのかもしれないが、高句麗土器の研究は韓国でも国立中央博物館所蔵の高句麗土器をのぞくと資料がないので研究が進んでいない。わずかにソウル漢口北岸の百済遺跡から出土した「雙耳長胴壺」、「兩耳附長胴甕」が、5世紀中葉の高句麗土器だと認識されている。そのほか高句麗の墳墓から低火度の「黄褐釉」や「緑釉」の施釉陶器も出土されている。
1983年に発掘されたソウル市・夢村土城(ムソンドジョウ)古墳からは灰青色の「高句麗陶質土器」が、硬質の「百済陶質土器」とともに出土したという。日本での出土した「高句麗土器」も少なく、福岡市博多遺跡群(JR博多駅北西部)から大量の須恵器とともに発掘された長胴壺(高32.8cm)が唯一の「高句麗土器だ」といわれている。
この長胴壺についての報告書では、「体部の内外面はロクロナデだが,内面に成形時の指頭圧痕が残る。外面下位に回転ヘラケズリを加える。外面上位に図のようなヘラ記号を描く。胎土は精良だが小砂粒をわずかに含む。硬質の焼成とはいえ瓦質に近い。黄みをおびた灰白色」「器面がタテ方向にかすかな面をなしておりまして,タタキ技法が用いられた可能性がある。‥‥白っぽく,器面がつるつるしています。かなり硬質ですが,吸水性は高く‥‥百済や新羅,加耶の土器とは異質の印象」(柳沢一男・杉山富雄編 1985『博多III』福岡市埋蔵文化財調査報告書第118集から抜粋。)
広開土王碑には談徳が高句麗を中興した西暦391年に「倭が来て、百済を破り、新羅などを臣民にした」とあり、400年には「倭は、新羅城(金城)の中に満ちていた」、さらに404年に「倭は、無軌(道)にも、帯方界に侵入した」と刻字されており、倭が侵攻してきたこと危惧している。
この広開土王碑を作成したのは広開土王の息子の20代長寿王で、広開土王の功績を記した碑である。さらにピラミッドを思わせる花崗岩を積み重ねた高句麗前期遺跡の将軍墳(長寿王陵or好太王陵墓)は中国吉林省通化市集安にあって「高句麗首都古墳群」が2004年に平壌の高句麗古墳群とともに世界遺産に登録されている。
長寿王の時代には遼東に進出するなど高句麗の国威が発揚した。高句麗の台頭する中で、朝鮮半島の原三国は自立が急務になった。現在の忠清北道・忠清南道に百済を含む50余ヵ国あった「馬韓」が、百済に統合され、東方12ヵ国の慶尚北道の辰韓を新羅が国家としての体裁を調えていった。
南部の慶尚南道に12ヵ国あった弁韓諸国は統一することなく、加羅や倭が鉄資源と先進技術獲得のため進出して“任那”などの伽耶(加羅)諸国となった。
『後漢書』(ごかんじょ)では「倭の西北端の国」とする金海市にあたる狗邪韓国(くやかんこく)の良洞里遺跡、茶戸里遺跡、東外洞遺跡、勒島遺跡、芳芝里遺跡、達川遺跡などで弥生土器が倭人によって焼かれている。紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて隣接する洛東江下流では「無紋土器」が用いられていた。
百済と新羅に挟まれた伽耶は、鉄鉱石が豊富な土地である。1世紀には鉄器文化が伝わると農耕にはタタラ製鉄の鍬などで耕作して稲作を飛躍させ、武器としての剣や甲冑を大量に鋳造していく。釜山廣域市東來區福泉洞に所在する『福泉洞遺跡』には4世紀初頭から7世紀代にかけて営まれた古墳約100基が集中している。出土した遺物は赤色の「円底瓦質土器」や黒灰色の「伽耶陶質土器」が3000点、鉄器類が3000点、ほかにガラス玉などの装身具が4000点などと日本の土器も数点出土している。
伽耶地方しか出土しない騎馬を守るための馬甲や馬頭を覆う馬面冑(ばめんちゅう)も出土した。これは和歌山県大谷古墳や埼玉県将軍山古墳と同じ形式のものとされ、倭との交流を物語っている。
古代人の人骨が210体、183基の墳墓と1400点の遺物とともに出土した『金海礼安里(れいあんり)遺跡』と『福泉洞遺跡』はほぼ同時代の伽耶の遺跡である。
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