2023年11月13日

7 朝鮮半島 陶質土器

櫛文土器 ソウル岩寺洞先史遺跡出土(紀元前4千年頃)

 朝鮮半島では窯を利用した焼締の炻器のことを「陶質土器」といった。

 陶質土器は日本でいう縄文式土器や弥生式土器のような野焼きの土器ではなく、のちの須恵器のような窖窯による高温焼成のことをいっている。朝鮮半島四国の名をとって、「高句麗陶質土器」、「百済陶質土器」、「伽耶陶質土器」、「新羅陶質土器」などと名前が付けられるようになっていく。

 日本では草創期の縄文土器が紀元前14000年前から焼かれているが、お隣りの朝鮮半島ではエジプト、西アジア、インドと同じ時代の紀元前6000~5000年頃といわれている。

 朝鮮半島の南部では8000年ほど前から赤い土器が焼かれるようになった。粘土を帯状にめぐらせた「隆起線文土器」(紀元前6000年頃)が出土しており、その後、竪穴式住居で半定住生活が行われた紀元前5000年頃に、煮炊きに適した櫛目文土器が造られるようになった。

 これはUとVの型を折半したような形状で絵筆を使わず、櫛歯状にした木箆でシンプルな幾何学的文様が刻文された「櫛文土器」で「縄文風土器」ともいわれている。

 絵を描いた西アジアや中国の彩文土器文化とは流れを別にするといわれている。まず現在のソウル市など半島中西部地域で作られはじめ、のちに朝鮮半島全域に広く分布しながら発展してきた。このことから朝鮮半島の新石器文化は『櫛文土器文化』ともいわれる。

櫛文土器 ソウル岩寺洞先史遺跡出土(紀元前4千年頃)
櫛文土器
ソウル岩寺洞先史遺跡出土(紀元前4千年頃)
出典:Wikipedia

 その後、中国長江文明衰退の影響から渡来した人々によって朝鮮半島では水稲作がはじまり、定住生活が増えて貝塚が少なくなった。この紀元前1500年から紀元前300年には「無文土器時代」が到来するが、奇しくも日本の縄文土器時代や弥生土器時代との重なりが感じられる。(『弥生ミュージアム』によれば、吉野ヶ里遺跡や九州北部の弥生時代の遺跡から多数の朝鮮系無文土器が出土している。)

 現在の北朝鮮の平壌を経て黄海に注ぐ大洞江(デドンガン)と韓国ソウル近郊を流れる漢江(ハンガン)、そして河口周辺に散在した江華島(カンファド)などの島々を含めた西海岸地域の土器は、ドングリのような尖底形が代表的な形で、表面には櫛文や斜線文、列点文などが彫られている。

 中国とロシア、朝鮮半島の国境に接する豆満江(トマンガン)周辺の北東海岸地域のものは、平底形が特徴で表面にはさまざまな陰刻文や雷文などが彫られ、粘土の帯を付けて盛り上げた隆起文もみられる。

 

中期無文土器 大坪遺跡出土
出典:Wikipedia

 紀元前6000年から紀元前4000年まで隆起文土器系統と文様のない「無文土器」が造られ、紀元前4000年から1000年には、中国の東北部から朝鮮半島全域にかけて、日本の「縄文土器」(熊本の曽畑式土器)によく似た型の「櫛目文土器」(有文土器)が造られている。日本の縄文は縄目を押しつけた紋様だが、朝鮮半島のは櫛で幾何学的に彫りを入れたような紋様の土器だが、基本的にはよく似ている。

 さらに、朝鮮南部・釜山の貝塚では「縄文土器」が発見され、当時より日本文化との交流をうかがわせる貴重な発見であった。この縄文土器は釜山博物館の東三洞貝塚展示館に展示されている。

釜山と影島を結ぶ影島(ヨンド)大橋
出典:Wikipedia

 釜山の影島区東三洞(ヨンドグトンサンドン)貝塚からは日本の九州地域の新石器人との交流があったことを示す縄文土器と黒曜石(佐賀県伊万里市腰岳産)が出土している。紀元前4世紀から3世紀になると日本の弥生土器に似た「赤褐色無文土器」や「黒色無文土器」が焼かれるようになる。

三世紀の朝鮮半島
出典:Wikipedia

 

2、3世紀の楽浪古墳からは漢の緑釉に倣った「緑釉」の掛かった壺や山岳を表した円錐形の蓋のついた“博山爐”や多枝の燭台などが副葬品として出土している。

漢の武帝は紀元前108年、衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部の楽浪郡(らくろうぐん)に漢四郡(かんのしぐん)を植民地にして領土を拡げたことで、漢でも有数の大郡となった。まずこの楽浪郡に漢文化を伝え、朝鮮文化に深いかかわりをもつようになる。それまで遠い存在だった中国の黄河文明の技術を取り入れた「紅陶」も作られ、いよいよ漢代の灰陶の流れを汲む還元焔焼成の灰青色の硬質土器「灰陶」の技術が伝わってきた。

 楽浪郡は312年、急成長した高句麗に滅ぼされた。その南側に位置する帯方郡(たいほうぐん)も、後漢の204年から高句麗に滅ぼされる313年まで朝鮮半島の中西部にあった。

 朝鮮半島南部に居住していた人々を「韓」ということから、1~4世紀に半島南部西側の52カ国に分かれていたが、馬韓(マハン・のちの百済の北部)という部族集団となり、東側の12カ国に分かれていた国々が辰韓(チナン・のちの斯廬国、新羅)となり、12カ国に分かれていた部族は最南端に位置する弁韓(ピョナン・のちの任那付近)という国家「三韓」に分かれた。

 戦国七雄の楚・韓・魏・燕・趙・斎を次々と攻め滅ぼした秦は、紀元前221年に始皇帝が中国史上初めて統一を果たす。この動乱に巻き込まれた燕・趙・斎などの多くの民が朝鮮半島に避難してきた。また辰韓は「秦韓」ともいい、秦から移民してきたともいわれている。

 


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