2023年11月08日

6 中国の漢から朝鮮半島北部にもたらされた“鉄と陶”

緑釉騎馬人物文壺-漢代

 朝鮮を支配していた燕から衛氏朝鮮、そして武帝は衛氏を滅ぼし漢四郡(楽浪・真蕃・臨屯・玄菟)を朝鮮半島の北部に設置する。

楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡
出典:Wikipedia

「まず隗より始めよ」(先従隗始)‥‥‥

小国だった燕(えん・紀元前1100年頃~紀元前222年)は隣国の斉(さい)に攻められて没落していた。斉は六国のなかで最大の人口を有し、芸術面でも”稷下の学士”が都に集まり、自由に百家争鳴を繰り広げるほど学問の中心となって斉の国力は一時、秦と並んだほどである。

燕の昭王(在位紀元前321年~紀元前279年))は燕の再興のために富国強兵を望んで、食客の郭隗(かくかい)に「再興のために賢者を招きたい」と相談した。「まず私を優遇してください。さすれば私より優れた人物はもっと優遇されるだろうと思うはずだ」と、郭隗のいうとおりに名将・楽毅や秦を除いた六国の間に同盟を成立させた策士・蘇秦と弟蘇代などの有能な人材が集まってきた。さらに鋳造鉄器を中心とした初期の鉄器文化を築き上げた昭王は燕を再興させて全盛期を迎えた。これにより「まず隗より始めよ」という故事を生んだといわれている。

 紀元前、中国の春秋戦国時代の七雄のひとつ燕は、現在の北京に都「葪・けい」をおき、戦国時代には遼東半島を領有し、さらに渤海を取り囲むように河北省を中心に北京や天津のある遼寧省を支配していた。

戦国時代(紀元前350年頃) 「燕」地図 ▣葪(現:北京)
出典:Wikipedia

燕は秦に先駆けて東西二千里(中国では一里が500メートル)という長大な長城を築いている。『史記』蘇秦列伝(紀元前334年)によると「東に朝鮮・遼東、北に林胡・楼煩、西に雲中・九原、南に呼沱・易水がある」といわれて「全燕」(完全なる燕)、最古の地理書『山海経』には「鉅燕」(巨大なる燕)だ、とも記されている強国であった。

 燕の都「燕京」(えんけい)は、古くは薊(けい)といわれ、戦国時代に燕が都城を築いた。

(936年、北方民族の契丹の遼が5京(副都)の一つとして燕京を「南京析津府(せきしんふ)」とする。1115年、女真人の完顔阿骨打が遼を滅ぼして満州に建国した金四代の海陵王は上京会寧府から1153年に燕京に遷都して「中都」と呼んで首都とした。中央集権国家樹立を目指す改革を進め、都城として整備されて北京の源流になった。盧溝橋の石橋も造られた。

1234年、金朝は第9代120年で滅亡したのち、1260年、モンゴルのフビライが建てた元朝には壮大な「大都」を築いた。明の永楽帝以降は「北京」と呼ばれ、清代でも首都とされて中国最大の都市となった。)


 韓国では紀元前2333年に檀君(だんくん)朝鮮が建国されたとして検定教科書に記されているという。その後の中国殷代最後の王・紂王(ちゅうおう)の親族が箕子朝鮮(きしちょうせん)を建国したとされ、さらに燕から亡命した衛満(えいまん)が紀元前195年、朝鮮半島北部(現在の平壌)に「衛氏朝鮮」(えいしちょうせん)という古朝鮮を建国した。これが朝鮮半島最初の国家とされている。

 古朝鮮隆盛時の領土は、北は中国東北部を流れる松花江(ショウカコウ)、南は朝鮮半島。東は日本海に面す外満州に属す挹婁(ユウロウ)の沃沮(オクチョ)から西は遼東湾に注ぐ遼河(リョウガ)まであったという伝説もある。 

 衛氏朝鮮は鉄器文化により農業と手工業が発達し、軍事力も強化して古朝鮮を拡大させた。3代目の衛右渠(えいうきょ)王の時、漢に刃向かい攻められた。2年ほど抵抗していたが、漢はシルクロードを渡ってきた帆船の技術を渤海湾の水軍に生かし、武帝の漢は陸と海から大規模な攻撃を仕掛け、首都王倹城を陥落させ、90年間存続した衛氏朝鮮を紀元前108年に滅亡させた。

漢武帝
武帝(紀元前141年~紀元前87年)
出典:Wikipedia

前漢の七代皇帝・武帝(劉徹)は中央集権を強化した優れた文人といわれ、学問を奨励して儒学を官学とし、租税軽減など積極的な改革を行って治世は安定して前漢の全盛期を迎えた。

 この皇帝は、なんと鉄のイノベーションを成しとげ、1200度に加熱できる炒鋼炉を開発して、大型の武器(戟・ゲキ)や農具では犂鏵(リカ)で農業革命を成功させた。

 これまで苦しめられた匈奴を打ち破り、衛氏朝鮮を滅ぼした武帝は朝鮮半島の支配機構として漢四郡(楽浪・真蕃・臨屯・玄菟)を設置した。半島では鉄鉱石を掘り出すなど鉄資源も支配し、鞴(ふいご)を使った鋳鉄を生産した。

 西アジアから鉄の道を経て、朝鮮半島から倭国といわれた日本にその技術が到来したのは弥生時代であった。製鉄のおかげで大型の建物や大型船を作ることができるようになり、海外との交流も盛んに行われるようになっていく。

 中国大陸では北方の遊牧騎馬民族「匈奴」の侵入を防ぐため繰り返され建造されてきた『万里の長城』だが、漢代に造られた長城は匈奴を防ぐため西は長安(西安)からオアシス都市・敦煌まで2000㎞あり、甘粛省敦煌市の南西約70kmにある陽関(ようかん)は黄河の西にある河西回廊を防衛するために造られた。

陽関
出典:Wikipedia

漢の長城は朝鮮半島北部平壌の南まで総延長は10000キロ以上といわれ、秦の始皇帝が建設したものより長いといわれている。木枠の中に握れば硬くなる土を入れ、上から石槌で固める方法の土塁で、乾燥地帯では日干し煉瓦で造られた。現存する万里の長城の大部分は煉瓦(磚)で造られている。

それは明代嘉靖代に倭寇の活動を沈静化させ、救国の英雄と謳われ戚継光(セキケイコウ)は1567年、モンゴルの侵入に対抗するため大規模な長城の改築にのりだしたからだ。近年、河北省板廠峪(バンショウヨク)で煉瓦を焼いた窯址が発見されている。この煉瓦を焚いたモチ米をつぶして糊状にしたものを石灰に混ぜて接着せた。

八達嶺長城
出典:Wikipedia

役目を果たしていない土の壁から屋根付き見張り台に10人の兵士を住み込みで配置させた現在見ることのできる立派な長城の姿とした。とくに遼寧省綏中県にある九江という川の上に「九門口長城」が建てられた。唯一、水上に建てられた城の関所の長さは約110メートル、幅23メートルで、高さは水面から6~7メートルあり、9つのアーチ型の水門に木製の扉がつけられていた。ここには全長1027mの「秘密のトンネル」が掘られていたが、明の末期にあたる崇禎代、山海関一帯を守っていた明の総兵、呉三桂は反乱を決意、満州族の清軍をトンネルに引き入れ、これが明王朝の滅亡につながった。

 話しを漢代に戻そう。

青銅器文化が栄えた漢ではあったが、陶磁器でも轆轤や窖窯を使って高火度焼成された「灰陶」(かいとう)や「黒陶」という釉薬を掛けない”焼締陶”を焼いていた。さらにこの自然釉からヒントを得て、窯に残った灰に長石、石英、カオリンなどを混ぜた「灰釉」(かいゆう)を開発して、これを施釉した。灰釉は地味だが高温でしっかりと焼かれて丈夫で実用性に富んでいた。

 前漢時代の施釉陶器といえば洗練された造型の青銅器を真似たものが多い。戦国時代の『灰陶』の技法を受け継ぎながら、灰白色の素地を使い、精巧な轆轤で薄手に成型された壺に獣環紋様などがつけられていることから、この時代に制作された青銅器の形を倣って造られた。

 さらに1200度を越す高火度で頑丈に焼締められた漢の『灰陶』は、酸化焼成だったため、淡褐色の生地に淡黄緑色の灰釉が掛かっている。華北では無釉の灰陶も盛んに制作され、その上に顔料で描いた「彩画土器」「加彩土器」が漆器や青銅器の代用として儀礼用に造られている。「青磁」の登場も前漢代の紀元2世紀ころからである。

 ところが2000年前の漢代陶器の名を高めたのは『褐釉陶や緑釉陶』の低火度鉛釉陶器で、青銅壺を模して造った「漢緑釉盤口壺」や、そそり建つ二層三層の「緑釉楼閣」などの多くの墓に納められた明器で馴染みのあるものが多い。この酸化銅を呈色剤に使った低火度焼成の「青緑釉」が紀元前7~3世紀が完成している。これまでの中国陶器の灰釉系とは違った焼物で、地味な陶磁史に突如、異彩を放った。

 

緑釉騎馬人物文壺 漢代
出典:Wikipedia

(長安の都城から北西に20キロほどのところに前漢晩期の「陶俑窯址群」が発見され、現在の西安市未央区六村堡、相家巷村一帯で27基が発掘調査されている。)

 このルーツは紀元前14世紀頃のエジプトからはじまり、ペルシャでは紀元前10世紀頃から使われていた。日本の弥生時代にあたる漢時代は西方のローマ帝国や西アジアのパルティア王国(BC248~AC226)との国際交流など武帝は内外に積極的な政治を行った。紀元前100年ころ、シルクロードが開かれ、西域の文化が中国の漢に流入している。色彩豊かな鉛釉陶器『褐釉陶や緑釉陶』の技術が伝わり、生気溢れる種々多様な要素が入り混じった美術を生むことになる。低火度ゆえに脆いため実用品としてではなく墳墓に副葬する明器(めいき)として「漢の緑釉」が誕生したといえる。

 「漢の緑釉」は酸化鉛を主成分として炭酸銅(緑青)を呈色剤としており、銅や鉛の融点は750度と低い軟質な陶器で、ソーダーを含むこの釉薬は数百年経つと自然に酸化や風化が行われて、表面が薄い層に分離してくる。

 薄くなった釉の間に空気が入り、外光を屈折分散して、オパール現象を起して玉虫色に輝いた。これを“銀化”という。むろん銀が吹き出したわけではないが、漢の緑釉の美しさはこの銀化現象で極まる。

 漢では低火度焼成された鉛釉陶の「緑釉」や「褐釉」という美しい色彩の陶器が制作されるようになり、のちの「唐三彩」と同じように“生前と死後の世界は同様だ”と考えられていた。陶工たちはその“厚葬願望”によって制作した副葬用の明器である。千数百年の間、墳墓に眠っていたために“幻の漢緑釉”といわれるようになった。

漢緑釉 博山酒尊
出典:Wikipedia

 幻の漢緑釉が陽の目を見たのは、20世紀初頭のことである。中国では都市開発のため道路や鉄道工事を行っていた。すると19世紀末、洛陽北方にあった長安や洛陽付近の古代墓地が壊され、その漢墓から大量の明器が出土した。金目当てでおびただしい墳墓が発掘(盗掘)されたことで、日本でも高価だった漢緑釉や唐三彩の価格が大暴落した経緯がある。

 漢の古墳墓から出土した銀化した緑釉の壺、楼閣、犬などは永い間、土中に埋もれ、その年月が自然に造り上げた、妖しいまでに神秘的な銀化‥‥これは私たちを2000年前にタイムスリップさせてくれるかのようだ。

 この緑釉の技術が朝鮮半島北西部に影響を与えるようになり、日本には朝鮮南部を経由して日本初の色釉として7世紀後半に銅釉(緑青)で青釉が焼かれるようになった。奈良時代には「唐三彩」の釉調に倣って「奈良三彩」が須恵器の素地を用いて誕生していく。


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