エドワード・モースが大森貝塚を発見したニュースは、発掘調査の独占許可を得ていた東京大学を中心として大きな話題となっていった。東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)在学中の坪井正五郎(生物学科・のちに東大人類学教室初代教授)はこのことに刺激を受け、大学構内付近のあちらこちらを掘ると土器の破片や矢じりなどが出てきた。運動にも良いということで東京帝国大学予備門の生徒だった有坂鉊蔵(のちに軍務に就くかたわら、東京帝国大学工学部教授となる)と一緒に東京府本郷区向ヶ岡弥生町で発掘していた。
その1884年、現在の東京大学構内から有坂が一個の赤い薄手の土器の壺を見つけた。
有坂はそれを坪井に託し、5年後、坪井正五郎は『東洋学芸雑誌』(東洋学芸社)に、この土器を発見した経緯の詳細を書いた。
1896年,考古学研究者蒔田鎗次郎(まいだ・そうじろう)もこれを「弥生式土器」と 呼んだ。
発見された地名をとって「弥生土器」と名づけられたのだ。それは火焔土器のようにデフォルメされたものとは全く異質のフォルムで縄文土器に比べて明るい赤褐色、堅くて薄い胴部のやや下膨れのの壷(高22.0㎝ 最大径22,7cm)だった。
外側には細かな羽状繩文があり、欠損した口つくりの割れ口の上部にラッパ形の口縁部があった。べべら風に見える頚部(径8.4cm)の内部には輪積された跡が残り、肩には可愛い擂座が3ッずつ並んで貼り付けられている。底部径8.5cmの高台はバチ高台のように少し張り出している。何ともフォルムが優しいシンプルな壷。1975年(昭和50)国宝・重要文化財に指定されている。
しかし、「弥生式土器」の発見地は根津の谷に面した向ヶ丘貝塚だが、昭和時代の1920年頃、下層から縄文式土器、上層から弥生式土器が発見されていたが、十分な記録が存在しないまま都市化が進んで土器の出土地点はおろか貝塚の位置まで確定できなくなり、「弥生町貝塚」は所在不明の幻の遺跡となった。
ようやく昭和49年(1974)、東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、東京大学調査地点の発掘報告書は『向ヶ岡貝塚』として刊行され、昭和51年(1976)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。都心部での弥生時代の数少ない貝塚遺跡として評価された。東京大学の農学部と工学部の境に「弥生式土器発掘ゆかりの地」(文京区春日一丁目)の碑が建てられた。
穀物稲作がはじまった頃から石包丁で稲の穂を摘み取っていたが、弥生時代には鉄の鍬などの農器具が造られるようになり、米から湿気を防ぐために高床倉庫に保管できるようになった。
稲は6000年前、インドのアッサム地方で稲の栽培が始まったとされ、その後、アジア、アフリカへ、中国に伝わったのが5000年前。長江下流域の水稲耕作が日本に伝わってきた。五世紀には朝鮮半島南部からの角状の把手がある土器の甑(こしき・蒸籠)と釜や竈(かまど)が伝来して使用された。いわゆる蒸した強飯である。余談だが、最初の稲は赤米だった。一方、古事記や日本書紀には“五穀”の中には入っていない蕎麦は、ヒマラヤや中国南部雲南省が原産とされ、赤い蕎麦の実だった。蕎麦の伝来も3000年ほど前、中国からやってきた。最初はそのまま蕎麦殻をむいて粥状にして食べた。その後、挽いた蕎麦粉を熱湯で練って蕎麦掻きのようにした。江戸時代にはうどん屋さんの手法を真似て“そば切り”して饂飩のように茹でたが、三〇秒ほどが限界、一分以上だと跡形もなく溶けてしまったから、茹でずに蒸籠(せいろ)で蒸して食していた。そこでうどん粉を二割ほど入れた二八蕎麦ができあがった。現在でも利休の故郷・堺では、本来の“せいろ蕎麦”を食することができる。ちく満というお店だが、そば粉十割でないのが残念だが、冬にはセイロで蒸した温かいそばも一興かと。(蕎麦屋さんで「せいろ」と注文するのは、この「蒸し蕎麦」の名残である)
弥生式土器は、縄文式土器の進化ではなく、北九州の遠賀川流域において新しく誕生したと考えられている。おなじ土器でも縄文土器と弥生土器の大きな違いは技術面である。
遺跡の付近の土を掘り、それを捏ねて作り始めたからかなり多孔質で粗い土味、その厚みのある表面に縄を押し付けたり彫ったりして複雑な模様を入れ造形美を重視した縄文土器は低温・黒褐色・厚手で脆い。火炎土器のように複雑な模様を入れたのは食料の貯蔵や煮炊き以外に雨乞いなどの呪術や神を崇める祭器として使われたと思われ、焼成温度は600度から700度ほどと思われる。
平安時代、清少納言の随筆『枕草子』には、土器(かわらけ)は「きよしとみゆるもの」(清らかで美しいもの)として描かれている。機知に富んだ女性歌人は弥生土器や水をくぐったカワラケ(土師質土器)のことを「清らかで美しい}と詠んだのであろう。
弥生土器は、土を掘って水で攪拌して上層にある細かな土だけで制作したので堅くて薄手にできる。造形はシンプルで無文が多く実用性に向いている。焼成は縄文と同じ野焼き(焚火)だが、器の上に樹木の皮や藁、土を被せて焼成するから縄文土器より100度ほど温度も高い700度から800度ほどで縄文土器より明るい赤褐色を呈す。真黒に見えるところは被せた樹木や藁の当たった所や煮炊きの痕である。
1989年(平成元年)、佐賀県神崎の吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見され大きなニュースになった。そこには紀元前4世紀に出現した弥生弥生墳丘墓が多く見られ、3世紀には最盛期を迎え40ヘクタールを超す大規模な環壕集落のクニの発展がみられた弥生時代の最も重要な遺跡のひとつ。
一般には縄文時代を経て、農耕社会が定着し発展してきた時代を「弥生時代」といっている。
これまで紀元前2世紀から古墳時代に先んじる前方後円墳のできる紀元3世紀までの時代を弥生式時代といっていたが、2003年、日本考古学会は唐津市の梅白(めじろ)遺跡など九州北部で発掘された夜臼(ゆうす)式、板付式土器の甕に付着の炭化米の測定(炭素一四年代測定法)を行った。
この5月20日、主要な全国紙の第一面を「稲作伝来、500年早まる」「弥生500年早まる」とその時の記者会見の様子が載っていた。その結果から紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までを弥生時代というようになった。
黒田草臣 「陶のきた径」‥‥№24
☆★☆
魯山人「大雅堂」「美食倶楽部」発祥の地
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9
TEL: 03-6228-7704
営業時間:11:00~18:00(日・祭日休)
無二の個性豊かな陶芸家とともに歩む
〒150-0002 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
TEL: 03- 3499-3225
営業時間:11:00~19:00(木曜休)