2025年04月16日

26 土器と土師器

縄文土器45×55

 藤原京から遷都した天平文化の中心地・平城京へと七一〇年、女帝・元明天皇が遷都を行った。この頃には中央の大寺院や地方の役所の副葬品などの注文品を担っていたのは須恵器の出現で、これまでの弥生土器の名は消えてしまった。

ところが、土器や埴輪造りの専門家・土師部が造った土師器に、弥生式土器の技術は受け継がれていく。古墳時代の初期に吉備津地方で円筒埴輪がはじめてつくられた。埴輪の起源だ。

 身分の高い天皇などを葬る時、供の者も一緒に生きたまま埋葬されていたが、垂仁天皇の皇后(日葉酢姫命)が亡くなった時、「死人に従う道は良ろしからず、これに代わるよい方法はないか」と天皇は、家臣にたずねた。

埴輪「座の男子」
塚廻り古墳4号出土(Wikipedia)

 「いい方法があります。少しお待ち下さい。」とすすんで答えた者がいた。これが勇者の誉れたかかった野見宿禰である。数日後、自分の領土・出雲にいる焼物師100人に造らせた人・馬・家などいろいろな形をした焼物を献上し、それを墓の回りに立ててみた。

 これが「埴輪」で天皇は大いに喜び、野見宿禰を褒めたたえ、焼物を焼いている諸国の土地を与え、姓を土師臣と改めさせ、土師部を統率する土師連の長としたのである。それは堺市土師をはじめ大阪府の3ヵ所、群馬多野、栃木足利、京都天田、鳥取八頭、徳島名西、福岡喜穂・三井そして岡山邑久など全国の土師郷であった。土師氏の祖として「日本書紀」に登場する。

 野見宿禰は天穂日命の子孫であり、垂仁天皇の命で当麻蹶速と相撲をとって勝ち、相撲の始祖としても崇められ、また彼の統率した土師部は、土器や埴輪の製作だけではなく葬儀一切を取り仕切った。

しかし光仁天皇の時(781年)、子孫の土師宿禰古人が、「祖先は吉凶の祭事を預かっていたが、今はもっぱらながら凶儀のみに預かり、祖業と違うことから土師を改め、居住している大和菅原(奈良県生駒郡伏見町菅原)の名によって菅原氏に改めたい」と願い出て、許しを得て菅原宿禰となり、ここに菅原氏が興った。さらに、桓武天皇の時(七九七年)、凶儀から外され、文筆方面の役に変わり、これ以後代々文学者として天皇に仕えたのである。

縄文土器(径45.0㎝ 高55.0㎝)

 土師部の制作した土師器は、それまでの縄文、弥生土器手法と違って須恵器の轆轤技術を取り入れている。細かな粘土を使い遠心力を利用して円形の整わせた均一の形状にできた。奈良平安朝までは豪族などが使う単純な日常生活雑器を焼いていた。

これまでの土器と土師器の大きな違いといえば、叩き造りの弥生土器に対して土師器は八世紀後半から轆轤の使用がはじめられたことで無文が多く赤褐色の土器を制作している。野焼きの焼成温度は約850度、酸化炎で土器は赤茶ける。

古式土師器左に布留式土器群、右に庄内式土器群。大阪府藤井寺市土器群船橋遺跡出土(Wikipedia)

現在の瀬戸内市には約500基の古墳が確認されている。前方後円墳の墳長82mの築山古墳(長船町西須恵)など多くの古墳があるが、ここに長船町東須恵・西須恵のほか長船町土師の地名も残っている。

平安時代前期に作られた律令制下の行政区画がまとめられた「和名類聚抄」 (わみょう るいじゅしょう)には備前国邑久郡土師や須恵の地名がみえ、備前須恵器の玄関口・牛窓の港付近には、古備前や須恵器の陶片などとともに、土師器の陶片も見つけることができる。

中世に入って登場する“かわらけ”は祭祀用の手づくねの土師器で、厄除け魔除けと称して“かわらけ投げ”などが行われている。

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【唐津 丸田宗彦展】Exhibition of MARUTA Munehiko

【唐津 丸田宗彦展】Exhibition of MARUTA Munehiko

2025年4月18日(金) ~ 4月29日(火) Exhibition: April 18 to April 29, 2025

休業日:4月24日(木)  Closed on April 24 (Thu)

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