”篤学の陶人”というべき、野にある名もなき懸命な作り手の中から、生気あふれる才覚を見つけだしたい。空疎な気取りや見栄を張ってよく見せようとするのではなく、栄利聞達を求めず自然体で羽ばけられるように、供に努力したいと願っていた。
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はじめて自然坊窯をレンタカーで訪ねた時、初窯作品が大量に残っていた。それは唐津焼であって自然坊の作ではなかったと思いたかった。初対面の時、自然坊に「なぜ陶芸家を志すのに、こんなものを作るのか」と思わず言ってしまった。いささか腹が立って発した言葉だったが、今日なら立派なパワハラだろう。
その後、自然坊は田中佐次郎作品に惚れて佐次郎に窯焚の教えを乞い、二度目の窯焚をする。やきものの基本である『土と炎』に重点をおいて、懸命に作品を作った。それは”焼くために造る”、という一番重視する自然坊の指標ともなっていた。
『土』は野山を歩き回って探してこれを粘土に仕上げる。どこにでも土のある唐津だったら当然のことであろう。土は土のもつ性格で造形や焼成の方法を徐々に教えてくれる。いわば土がモノを作り、土が作り手を動かすのだ。
『炎』は背の低い割竹式登窯、これが強烈な炎を可能にした。だが、背が低いので作品を窯詰めするには膝を曲げ腰を屈めなくてはならない、独立したばかり弟子はいないので、作品をもって這い蹲って窯の中に入らなくてはならない。背が高い自然坊には辛い仕事であった。結婚してからは妻の米子さんがその手伝いをしてくれるようになった。
この背の低い窯が強烈な還元炎が唐津焼本来の釉調を生んだ。窯出しとともに火前は火の勢いに耐え切れず変形し、袋物など潰れてパンクしたものもあったが、その釉調は宝石にも似た深遠さを生み出し、焼成の面白さを感じさせてくれた。

中川自然坊 朝鮮唐津窯変徳利
思い返せば1980年、当苑初個展を開催した田中佐次郎先生の半田の窯に伺った時のことだった‥‥夜中の攻め焚き中。窯の中を覗くと前列の茶碗がへたりはじめ、変形してきた。「先生!火前の茶碗がへたりはじめていますよ。もう火を止めたら方が良いのでは‥‥」と慌てて言った。それでも佐次郎は「いや、もう少し焼かんとね」といいながら、細い割木を連続して放り込んでいた。数日後に窯出しされた。
今も忘れられない、火前の棚に斑唐津や朝鮮唐津の茶碗すべてが棚板にべっとりと皿のようになっていた。
「このようになると、素人の私でもわかりましたよ」
この半田の登窯は5年前の1975年に築窯され、10回以上は焚いているはずだった。
「いやー、未だに朝鮮唐津の茶碗は一点も世に出てないけんね」と平然と言い放った。唐津の斑や朝鮮唐津、青唐津などは炎の極限で焼かれたものの方が深遠な美しさを醸し出すからと思った。
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はじめて自然坊窯を訪ねてから年に4.5回の焼成を試みるようになり、その窯出の度に行った。その度に呼子に連れて行ってくれた。唐津を過ぎて呼子に向かう途中にある七つ釜という景勝地に立ち寄った。少し歩いて玄海の見える草原にでる。その岬から玄界灘を眺めた。
「凄いね、岩場に打ち付ける荒波」「この迫力を見せたかったのです」
「荒波が白く砕けるの迫力を朝鮮唐津の陶板などに表現してみたらよいかも」「ですね。やってみます」
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独立から3年後、私は自然坊のデビュー展を企画した。強烈な炎を浴びた窯焚で作品が揃ったからだ。
この頃、デパートやギャラリーで陶芸家の個展を「‥‥陶芸展」「‥‥作陶展」などと銘打って開くのが常であったが、当苑は陶芸家の名を強調するために、自然坊の個展を期に、「中川自然坊展」と作家名だけにして、1985年(昭和60年)3月28日から6日間、「唐津 中川自然坊展」を開催させていただいた。

玄海の近く山ふところに中川自然坊の割竹式連房窯があります。
荒けずりながら、とことん焼込んだ自然坊作品は、
唐津本来の野武士的な重厚味と素朴さを持ち、人の心をつかむものがあります。
清眼の自然坊‥‥期待の初個展です。

初日から唐津焼に限らない陶芸愛好家の方々が個展会場に来ていただいた。
「唐津焼のイメージが覆った」「焼が面白い」と、大盛況だった。
朝鮮唐津や斑、刷毛目と粉引、絵唐津など、とことん焼きぬいた作品が中心で 「自然坊唐津」を印象付ける鮮烈なデビュー展となり、多くのフアンを虜にしてくれた。(あの刷毛目のぐい呑は共箱入りで6,000円とさせていただいた。)

唐津皮鯨沓茶碗で自服
どちらも自然坊作品
自然坊は初個展以後、まさに「豪宕俊逸(ごうとうしゅんいつ)な陶芸家」として活躍していく。
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