越前焼を日本の六古窯の仲間入りさせたのは小山冨士夫である。
戦後間もない昭和22年(1947)4月に創刊された『陶磁味』(博雅書房)に『越前の古窯』と題して小山冨士夫は越前古窯址発掘の結果を発表している。
「陶磁味」第1号
「瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前を日本五古窯と呼んでいる。わが国製陶の草創期である鎌倉時代から室町にかけては、これ以外には窯がなかったといわれてきたが、先年私は越前鯖江の西約三里ほどの、平等というところにある、これと同じ時代の窯を調べたことがある。越前に古い窯があるという話は、もう20年前から聞いていたが、ついつい調べる機会がなく、また、これを調べたという人にも会わなかった。たしか昭和17年(1942)の初夏だったと記憶する。親友の石黒宗麿君と当代真清水藏六氏と3名で、越中の立山連峰の剣岳の登山をやろう」と、まだ梅雨のあけない7月はじめに京都をたった‥‥
敦賀を過ぎてからふと、上田三平によって須恵器窯や平等、熊谷などに古窯址があることが指摘されていたことを思い出し、越前古窯の下調べをしようと思い立って鯖江にて一人で下車をした。(※上田三平は福井県の郷土史家。大正7年(1918)、考古学的な観点から小曽原・樫津・陶谷・平等などの発掘調査を行い、須恵器や陶器の研究をした。これらの窯業遺跡の歴史的意義をこの年の10月、『考古學雑誌』第9巻2号に、昭和9年2月の106号には「越前の古代製陶遺跡」という論文を発表し、小山もこれを読んでいた。)

この頃、小山は鎌倉の二階堂に居住して、『宋磁』(聚楽社)を刊行するなど忙しい毎日を送っていた。考古学者の高橋健自に案内された小山は「再び訪れることを約束してほんの一日だけ、ともかく窯址をつきとめてきただけのことである」と、この時の思い出の一端は‥‥、


鯖江市から西へオモチャのようなかわいい電車が走っているが、この鯖浦電鉄の終点に織田という町がある。‥‥‥‥織田から南へ一里ほどの間だけ、帯のように平らな土地がひらけ、これを平等(タイラ)と呼んでいる。‥‥古い窯址は、平等の部落の西南約千米ほどの里称「オホガヤマ」というところと、北約六七百米ほどの「オホカメタニ」というところにある。
土地の古老に案内をたのみ、「オホガヤマ」の窯址を踏査したが、部落から谷を越え、南の山澤をうねりくねって登りつめると小さな峠がある。‥‥」
古老とは誰のことなのだろうか?
登山好きな小山は昭和17年(1942)七月の梅雨の上がらぬ朝、雨の京都を石黒宗麿、真清水蔵六らと出発し、越中の立山、剣岳に向かっていた。敦賀を過ぎたあたりで上田三平の越前の古代製陶遺跡のことを思い出し、自らの眼で確かめたくなり、車中で織田へ行くにはどうすればよいか聞いた。鯖江から私鉄の鯖浦電鉄乗り換えで織田まで行けると聞き、一人で鯖江で降りた。
小山は鯖江から鯖浦電鉄に乗り換えて織田駅で降りた。小山の知識の中に福井県丹生郡織田(おた)町平等(たいら)の集落に古窯跡があるとわかっていた。土地の古老が「オホガマヤ」に案内してくれた。織田駅から谷を越え、南の沢をうねりくねって上り詰めると小さな峠があった。
「この辺りがオホガマヤでござんすや」と古老は雑木林の中に入っていた。茂みの中に古窯址らしきものがみえた。窯の煙道部は壊れ、径5尺ほどの穴が開いている。窯全体は土などに埋まってはいたが、山の斜面を刳り貫いた窖窯であることが確認できた。そのほかにも数基みつけた。いずれも細長い溝のように這う窖窯が山の斜面にあり、灰原もあった。落ち葉をどけると、壺や甕、擂鉢など他の古窯址と同じような中世の陶片であった。小山冨士夫は、どの古窯址を調査しても物原にある一片の破片たりともおろそかにしない。息を吹きかけズボンでこすってみた。自然釉の薄緑色が輝いてみえ、丹波や常滑に似ている室町時代後期の様式だなと思った。
このオホガマヤ「大釜屋」を探索した結果、「ここは中世古窯である」と確認できた。さらにより深く本確定な発掘調査を実施したいと強く思った。
土地の古老に「地元の方で窯址に詳しい方はご存じないですか」と尋ねた。
「‥‥だいぶ昔のことですが、上田とかいう師範学校の先生が調べなすったことがございましたが、その後は聞いたことはありません。どこも崩れたりして埋まってますもんで、、、」
上田三平のことだな、と小山は思った。「ほかに、どなたかご存知ありませんか」
「聞きませんのう。平等では農業の傍ら蛸壺や擂鉢、甕などを今でも作っているところは何軒かございます。ほうや、織田に北野左仲っちゅう人が織田焼を受け継がれてやってなはるけど、変わりもんで‥‥」
小山はその北野左仲にも会いたいし、「オホカメタニ」にも行きたかったが、時間がなく、急いで織田に引き返して、オモチャのような鯖浦線で鯖江に戻った。
わずか半日の未知の古窯址調査だった。しかしこれが日本六古窯へ越前が仲間入りする発端となる。時は太平洋戦争の戦時中、しかも小山は敗戦が色濃くなった昭和20年、少尉として応召されて朝鮮へ赴き、まもなく終戦を迎えた。

「越か備か丹か 主人が申す如く越ナリ」
この翌21年、「内外の優れた陶磁器を研究し、顕揚し、保存しよう」という意図のもとに新組織『日本陶磁協会』を小山冨士夫が提案し、古美術のよき理解者であった奥田誠一、尾崎洵盛、小林一三、松永安左ェ門らを顧問として迎えて発足した。
昭和22年5月、帝室博物館は東京国立博物館に名称変更され、所轄は文部省となった。小山冨士夫は戦争で頓挫している越前古窯址のことを日々考えていた。この帝室博物館には以前、歴史課長を務め世界的な考古学者となった高橋健自(1871~1929)がいた。高橋は仙台生れ、東京師範学校文学部を卒業。明治27年(1894)、福井尋常中学校に赴任してのち奈良県尋常中学畝傍分校の教頭に転出した。1904年、帝室博物館に入り、博物館員から歴史部次長、鑑査官等を務め、主として弥生時代と古墳時代を研究領域とした。東京根岸の自宅で日本考古学会を主宰し、「考古學雜誌」を創刊。墳丘、鏡の研究を以て邪馬台国大和説を主張した。「高橋健自をおいて博物館はない」といわれた考古学会の最高権威であった。東京根岸の屋敷には母屋のほかに書斎がある。そこには図書資料室、さらに自ら発掘した夥しい陶片や古瓦、埴輪、銅鏡などが所蔵されていた。東京帝室博物館の先輩でもある高橋健自のことを小山冨士夫はその業績を湛えながら研究していた。
高橋健自は1929年に亡くなっている。その長男泰郎は第一高等学校から東京帝国大学東洋史学科を卒業し、東京開成中学校の教師になった。健自の娘あやは長崎医科大学教授田中欽二に嫁いでいたが、夫と家を亡くし子供三人を連れて鯖江に疎開してきた。それを手助けしたの鯖江の名家・井波家であった。福井は酒處でもある、文化3年(1806年)に創業したという鯖江の井波酒造代表銘柄は「七ツ星」という。とくに四男の浩は昭和14年4月から東京の国士館大学に入学した時、高橋家に下宿するなど親戚以上の交流が続いていた。
この井波浩はのちの水野九右衛門を襲名する。水野は戦後間もなく高橋泰郎を介して小山冨士夫を紹介された。こうした繋がりが六古窯「越前」が世に出る足掛かりがとなっていくのだが。
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昭和23年(1948)、小山冨士夫は水野九右衛門の要請もあり、越前を再び訪れて宮崎村熊谷にあった水野宅に一週間滞在、織田村で開窯していた陶芸家・北野左仲(のち七左衛門・1912-1989)を加えた3人で平等、熊谷(くまだん)、小曽原(おぞわら)などの古窯址群を発掘調査した。
同年、「わが国で最も重視すべき窯の一つ」であると、『国立博物館ニュース』に「越前の窯」を寄稿して、はじめて『越前』と名付けた古窯址を発表している。これを機に越前は『日本六古窯」の六番目として世に出ることとなったのである。
次回の越前③は「水野九右衛門」にスポットをあてます。
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(※この「陶磁味」第1号に北大路魯山人は『魂を刳る美』と題して「陶器だけで美はわからぬ。あらゆるものの美を知って、それを通して陶器の美もわかる」と寄稿している。)
※日本六古窯🉂 に小山冨士夫という人物の略歴を書きとめてございます。






