2026年10月29日

古唐津②‥‥唐津の波多氏

奥高麗片口鉢(市瀬高麗神窯)

その昔、唐へ渡る港だったから「唐津」 

     ‥‥ 韓へ渡る港だから「韓津」(からつ)ともいわれた。

太古の昔より幾多の船が玄界灘を往き来して異国の文化が伝わってきたところだ。

当時、中国華北で曹操が創始した魏が栄えた時代、魏の使者が壱岐、対馬を経由して倭のクニに最初に上陸したのが末廬(マツロ)であった。曹操の没後に著された『魏志倭人伝』には「倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。‥‥帯方郡より倭に行くには、‥‥倭の北岸にある狗邪韓国‥‥そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国‥‥一支国(壱岐)より一海を渡る。千余里で末盧国に達する」とあり、「4千戸の住居が山海に浜(そ)いて居り、漁業も盛んで、人々は山や海に沿って住みながら、水が深かろうが浅かろうが、どこでも潜って魚やアワビをつかまえる。…先に行く人が見えないほどに生い茂った葦原を掻き分けて進んだ。そして住民はアマとして魚や鰒(あわび)を捕っていた。」と3世紀頃の倭(日本)の様子を伝えている。

『魏志倭人伝』の一部(Wikipedia)

末廬国は後世の地名である「松浦」で、地元では「マツラ」と発音している。

末盧国が松浦、唐津地方といわれるのは、今から2930年前の縄文時代末期に大規模な水田が営まれていたといわれる日本稲作発祥地『菜畑遺跡(なばたけいせき)』(唐津市菜畑)があり、保存出来る米を主食として人口増加と文明の発展をもたらし、日本海ルートで青森県など全国各地に広まっていった。さらに唐津の松浦川や半田川沿いに『宇木汲田遺跡(うきくんでんいせき)』(縄文晩期末~弥生時代を中心とする唐津市宇木にある遺跡)など多くの遺跡があり、唐津市双水には邪馬台国時代の王墓『久里双水古墳(くりそうずいこふん)』(古墳時代初期3世紀末〜4世紀初頭の最古級の全長108.5mの前方後円墳)などの古墳や古墳群が唐津市に集中している。

久里双水古墳(写:浜本洋好氏 2026.10.29)

遣隋使、遣唐使以来の大陸文化の輸入の門戸として那の津(博多)とともに大陸との交通の重要拠点であった松浦地方を四百数十年間もの間、支配していたのは波多氏で、大陸や半島などへの民間貿易を推し進め、海に陸にその名を内外に轟かせていた。

松浦党の祖先は第52代・嵯峨天皇の子孫といわれているが、嵯峨天皇は皇子皇女が49名いることで皇族の整理を行い、皇子皇女に源氏姓を名のらせ臣籍降下させた。嵯峨天皇の12男・源融(光源氏のモデルの一人)から出た一統が西北九州の一帯に根を下ろし、はじめて松浦氏を名のり、松浦源氏の祖になった。平安時代末期、源新太郎久が、肥前国松浦郡宇野の御厨(みくりや)検校となり、一族の平和共存を旨とし、同族の団結を図った久の次男・持(たもつ)が、波多郷を分与されて、はじめて波多氏を名乗った。天然の要害岩山を利用した「鬼子岳城(岸岳城)」を築き、初代城主となって松浦源氏の祖となり、波多氏の礎を築いたといわれている。

波多氏はそれ以後、松浦・彼杵・壱岐・鶴田・鷹島・福島・山代・有田・有浦・呼子・名護屋相知・石志・佐志・値賀等の九州北西部に広大な土地を領有し、肥前の海岸線を支配する松浦党の多くを掌握し、海の武士団といわれる水軍に長じていた。源平の壇ノ浦の合戦(1185)では源氏の勝利を導き、御家人として領土を安堵され、松浦地方は宋や高麗との貿易中継地で海外貿易が盛んとなり、大陸文化を輸入して先進文化を受け入れる正規の貿易を行う担い手となっていた。

しかし嘉禄2年(1226)、その海上貿易を高麗に妨害されたことに端を発し、その報酬として松浦武士は海の男達は「八幡大菩薩」の幟を潮風に靡かせ、中国大陸沿岸から朝鮮半島沿岸を襲撃し略奪をはじめた。(前期倭寇は倭服を着た中国人らも混じっていた)

3代将軍足利義満は明との勘合貿易を開始し、倭寇の取締りを強化したが、15世紀の応永15年(1408)に義満が病没、4代将軍の足利義持は勘合貿易を停止した。これによって再び上松浦党による中国、朝鮮沿岸との貿易が開始された。

中国との交易を求めた九州の戦国大名たちは博多など各地に唐人町を形成した。岸岳城下では年に一度の「歳の市」には上松浦党から多角的な交易によって集められた異国の珍宝珍噐を一目見ようと九州一円はもとより中国地方などからも集まり大いに賑わったという。

室町時代後期の16世紀には、朝鮮半島北東部の咸鏡道の沿岸まで上松浦党は到達するようになる。

次回:古唐津③

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奥高麗片口鉢 (市瀬高麗神窯)

堅牢さを物語る豪放な造りに玉縁、片口は使い勝手を考えて上を向いています。丸味のある腰から無釉の高台は竹節に削られ、高台内には縮緬皺が出ています。市ノ瀬高麗神窯の片口は口縁を無釉とし、玉縁の口縁部を合わせて重ねて焼成しています。この物原から片口同士が付着した状態で出土したものもあり、唐津では珍しい枇杷色の井戸茶碗も出土しています。