1500年前の日本(倭国)は古墳時代の五世紀の中ごろのことである。朝鮮半島での内乱もあり、伽耶や百済、新羅などからの渡来陶工たちが「須恵器」を誕生させたといわれている。
この時代に燃料の薪などの焔を逃がさない窯や轆轤がはじめて使われ、わが国では本格的な陶磁器への道が開けてきた。そのルーツといえば中国の新石器時代後期、今から4000年も前のこと、黄河や長江流域での画期的な「黒陶」、「灰陶」が轆轤を使い、焼成には炎を逃がさない窯が発明されていた。
文化は〝川と共に育つ“といわれ、長江(揚子江)や黄河などの雄大な流れが中国大陸を潤し、中国8000年の歴史と文化は、陶磁器の歴史とともに歩んできた。
黄河流域は、長江文明とともに中国文明のルーツといわれているが、最古の王朝といわれる夏をはじめ、殷・周・秦・漢・唐…幾多の王朝が、この地に興って、政治、文化の舞台としたが、この地に滅んだ。
その長い歴史の興亡を眺めてきた黄河、とくに鄭州(ていしゅう)付近では向こう岸が見えないほど広く雄大で黄河流域面積は日本の総面積の2倍という。チベット高原を源流として全長5464キロメートルを悠々と止むことなく今も流れている。ナイルやティグリス・ユーフラテスなどの大河の流域にも文明が生まれたが、ここ黄河文明はそれらとひと味違っていた。
“百年河清を俟つ”と言われる黄河‥‥
その記録に残る大氾濫は1500回だといい、黄土の土砂は年間16億トン以上も流される。洪水で氾濫した黄河は、龍があばれるかのように川の形を変えていたが、黄色い土を含んだ水の色は変わることがなかった。この氾濫のため、100年前まで橋を造ることができず、渡船に頼っていたという。
この黄河の雄大な流れは九省を横断し、下流部は川底が周辺の平面地よりも高くなる“天井川”となって、含有する泥砂の量は揚子江の約百倍という黄土、中流から徐々に水簸(すいひ)を繰り返して細かく漉される自然の力によって良質の粘土がつくられていった。
※ 「河」という漢字は本来、固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江(揚子江)を指しているのだと。
“楷・行・草”の各書体を芸術的に完成させて、「書聖」と称された王羲之の筆跡を集めたといわれる『千字文』は書の手本として名高く、1000の全ての文字が一字も重複していない漢文の長詩だ。中国南朝の梁(502~549)の武帝が皇子たちに「森羅万象、君主の心得、人としての道徳など」と習得させて、王羲之の書から千文字を使って周興嗣(しゅうこうし)という文官につくらせたものという。いわゆる文字やその意味を覚えさせるための教科書である。
余談だが、北大路魯山人が21歳の時、日本美術協會の美術展覧会に初出品で、褒状一等賞三席を受賞した。出品作は隷書千字文で、時の宮内大臣・田中光顕子爵(のちに伯爵)の買い上げという栄誉をえた 。これが「魯山人芸術」の幕開けともいうべき記念すべきものだった。
このような千字文は唐の褚遂良(ちょすいりょう)、懐素(かいそ)、北宋の徽宗皇帝、米元章(べいげんしょう)、南宋の高宗皇帝、明代の文徴明(ぶんちょうめい)をはじめ、日韓でも歴代の能書家も書いており、習字の手本として中国では初級の教科書に使われている。
その書き出しには“天地玄黄”(てんちはげんこうなり)で、「天」は玄、「地」は黄というわけで、「空」の色は奥深い黒、「地」の色は黄土‥‥と詠んでいる。これは黄河の “黄土”を指しているのではないかと考えたい。
黄土には鉄(水酸化鉄)などの有機物がたくさん含まれているので、土器の成型や焼成を容易にしてくれたばかりでなく、黄河の度々の氾濫のお陰?で農地は拡大していった。
モンゴルから飛んできた黄砂が堆積した土は握ると指の間からサラサラと落ちるほどの粉塵だ。この黄砂現象が、春一番にのって日本にまで届くこともあるほどで、細かい粘土質の黄土は農耕に最適だった。この乾いた黄土に水を含ませてのちに乾燥させると、しっかり固まる性質があり、土器の成型や焼成を容易にしてくれたのである。
今から4000~6000年前(新石器文化の前期)、すでに中国では華北の畑作農耕文化と長江南部の稲作農耕文化が各々の土器を造っていた。なかでも特に進んだ技術をもっていたのは黄河の中流域に興った華北の「仰韶文化」(ぎょうしょう・ヤンシャオ)で、黄河の黄土のおかげがで農耕文化を発展させ、黄河の淡黄色の土で成型した壺などを磨き上げてから酸化鉄やマンガンなどで魚文や渦巻、幾何学文などを描いた『彩陶』を使用した仰韶文化が花開いた。
スウェーデン人の地質学者ユハン・G・アンデショーン(英:アンダーソン1874~1960)が、1920年代に河南省北部の仰韶村の黄土地帯で彩陶を発掘して“アンダーソン土器”ともいわれ、これが中国で最初の考古学的な発掘調査となり、注目される。
西アジアに目をむけるとティグリス・ユーフラテスなどの大河のあるメソポタミアでも度重なる大洪水によって自然の力で水簸されたような彩陶に似た彩文土器が見つかっている。
表面が研磨され、その上にクリーム色の化粧土が施され、酸化鉄で原始的な幾何学模様を描いた「彩文土器」がウバイド文化(紀元前6500~紀元前3500)時代に誕生した。すでに轆轤成形されている。車輪も発明され、荷車による輸送も楽になり、水車による灌漑などにより都市化が進んだ時代であった。出典:Wikipedia
中国の黄河中原地方と同じようにこの地方の大部分は豪雨などの定期的な大洪水によって、山脈から運んできた沈泥からなっている。洪水によってエジプトナイル川の水量が約3倍になり、良質の粘土層を運んで肥沃な土地を拡大し、川に浮く不純物は水が引きつれ運びさり、小さな石や砂は川底に沈む‥‥。
黄河と同様に雄大な流れは自然の力によって徐々に水簸を繰り返し、ゆるやかな流れに乗って運ばれてくる粒子の細かい粘土によって大河流域は農耕文明が発達し、一歩進んだ土器が生れ、この地が政治・文化の中核となっていった。
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以下は、友人の鎌倉海岸キリスト教会(プロテスタント)の戸川偕生牧師から聞いたものである。
神が創造主であり、造り変えることのできる陶器師であり、私たちが粘土であることが、聖書の中に記されている。
「されど主よ。あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ 第64章8)
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中国最古の国家“夏”に受け継がれた黒陶・灰陶(かいとう)
山東竜山文化 紀元前2500 – 2000年 黒陶高坏 山東省
仰韶文化を代表する「彩陶」に続いて出現したのは、須恵器や備前焼のルーツともなる無釉の“焼締陶器”だった。「大汶口文化」では山東省を中心に黄河中流から下流にかけて手造りの壺などを成形して紅陶・彩陶そして灰陶・黒陶などを主に横穴式窖窯(焼成室が約1.8メートル)で焼いており、晩期には轆轤使った高杯や壺なども造られるようになった。
つぎの「龍山文化」(紀元前2400年~紀元前2000年)では本格的に窯と轆轤が普及してくる。
可塑性の良い土をさらに水簸をして微粒子とした粘土で薄く挽き、表面を研磨してからようやく窯入れする。焼成は、最終段階で松葉などの煙を充満させて、炭素をたっぷり吸着させる燻し焼の還元炎である。窯出しの後、さらに磨き上げて黒光りさせている。
昭和3年(1928)に山東省東部の龍山鎮にある城子崖遺跡(じょうしがいいせき)で出土した「灰陶・黒陶」は高温焼成され、しかも薄手なつくりの卵殻陶「黒陶高杯」は高い轆轤技術で卵の殻のように0.5mm~1mmほどであった。まさに研ぎ澄まされた黒陶は、シャープな線に漆黒の光を放つ高貴さを漂わせ、より精巧な儀礼用品を必要としたさまざまな器が造られていた。
黒陶は東方の黄河流域だけでなく、全長6300kmのアジアで最長の大河・長江(揚子江)流域にも拡がりをみせ、中国古代王朝の青銅工芸の手本となり、夏、殷、周の初期青銅器の形態の基礎となっていった。
「中華」という言葉の源流となった“夏”は、これまで「幻の王朝」といわれてきたが、中国歴史の祖といわれる司馬遷の遺した「史記」に中国最古王朝と記されている。
1959年以後、「夏王朝」の発掘や考古学的研究が進められて大建築群の宮殿・住居・墓などが発掘された。
エジプトやメソポタミアではまだ麦類しか作っていなかった時代に、最初の世襲王朝があったとされる二里頭遺跡だけが、粟や黍、小麦、大豆、水稲などの穀物を同時に栽培するという「夏王朝」は農耕文明であった。これらを煮炊きする調理器は独特な三本脚をもつ鼎(てい)や鬲(れき)、そして祭祀儀礼用の酒器である爵(しゃく)・觚(こ)など青銅器を真似た多くの種類が龍山文化の伝統をひく灰陶や黒陶で制作されている。もとよりこれらは身分の高いものだけに与えられる刻紋や叩き痕が残る伝統的な土器で、墓から出土することから副葬にも用いられていた。
灰陶や黒陶は1200度以上の高い温度で焼成したものもあり、窯の中に降りかかった灰がガラス化して自然釉となって地肌に融合する焼締陶は、のちの須恵器の焼成法にもつながってくる。当時の中国文明社会の急速な発展が、窯や轆轤を使う、より高度な技術を生んだといえると思われる。
やがて、夏の“黒陶や灰陶”の優れた技術は殷、周、戦国、前漢にかけて広大な中国各地に拡がりをみせていった。(昭和時代、このような黒陶を前衛陶芸集団「走泥社」の八木一夫、山田光、辻晋堂、熊倉順吉らが自らの造形明快さを生かすオブジェを制作して人気を博した。)
八千体の『兵馬俑』は二千二百年前の立派な陶芸作品
黄河の上流、最果ての甘粛省天水の遊牧民を祖先にもつ秦の始皇帝は文字通り、ファーストエンペラー。中国の[China]は秦[chin]に由来している。
数千年にわたって中国大陸を支配してきた古い伝統や因習を打ち破って、500年間続いた春秋戦国の世を統一し、巨大国家「 秦 朝」をつくりあげた。
日本では弥生時代にあたる紀元前230年、秦の大軍団は東へ攻め始める。この6年後、破竹の勢いの秦は中華統一を果たした。始皇帝が王位に即いてから37年間にわたり、70万人を動員して一辺の長さ500M、高さ87Mの巨大な陵墓・始皇帝陵を造りあげていく。陵墓内部の墓穴の壁面は版築といわれる黄土を一層ずつ突き固めて造ってあるが二千年以上経った今日でもその堅さは失っていない。
さらに始皇帝陵の周辺に地下宮殿とその周囲を取り囲む川や海(湖)の存在が明らかになってきた。いまだに発掘は許されていないが、地下50メートルの陵墓の内部とというと、司馬遷が書いた『史記』の秦始皇本記には‥‥
「穿三泉 下銅而致槨 宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之。令匠作機弩矢 有所穿近者輒射之。
以水銀為百川江河大海 機相灌輸 上具天文 下具地理。以人魚膏為燭 度不滅者久之」
三泉を穿(うが)ち、深く掘られた場所で、周囲は地下水が流れこまないよう銅で固めた壁を巡らせ、文官や女官の控室や、財宝を積み上げた部屋がある。盗難を防ぐために、自動で矢を放つ装置が仕掛けられているほか、地下の天井部分には星座が下部には中国大陸が描かれている。機械仕掛けで絶えず腐敗を防止するという水銀が流れる沢山の川(黄河や長江もある)・江・河・海が造られているのは、「永遠の命」を意味しているのだろう。部屋は久しい間、消滅しないような(クジラ?の)脂で明るく灯されている。(1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認されている)
それを囲む二重の城壁は6.2kⅿの外城壁と、3.9kⅿの内城壁で囲み、高さは10m以上あるという。総面積は2.26㎢におよび、石と黄河の土を使った日干しレンガで出来ている。この陵墓の世界は、墓というより始皇帝自ら死してのちも君臨しつづける永遠の都といわれ、それを取り囲む兵馬俑坑は始皇帝を守る地下軍団といえるものであった。
秦のことは『史記』、『戦国策』などの文献が豊富に伝えているが、「兵馬俑」は記録されていなかったから、”20世紀最大の発見”ともいわれ、その発見報道に世界の人々は驚愕したものである。
中国考古学上最大の発見である兵馬俑坑の発見は‥‥1974年、西安市の東北約40キロにある始皇帝陵付近で農民が井戸堀の作業中、偶然発見され、すでに三ヶ所が発掘されていて、今も作業が続けられいるが、ここをドームで囲い一般に公開している。
城壁内に陵墓を取り囲む兵馬俑坑があり、青銅器40000点が見つかっている。なによりも副葬させた戦車100余台、陶馬約600体、そして8000体の兵士や文官で、その兵馬俑は一つとして同じ顔、服装をしたものがなく、その平均身長1.80メートル、当時の兵士を生きるがごとく丹念に加彩されている。これを制作したのは宮廷の瓦塼を生産していた咸陽陶工を中心とした陶工集団で、俑に残る刻印の数は82にのぼっているという。
兵馬俑一体がなんど200キログラム、焼く前はもっと重い。安定感をもたすため足の部分は20センチ、胴は二センチの厚みに造られ、これを一ヶ月間乾燥させ、900度から1050度の還元炎で5日間以上焼き、これを10日目に窯出ししたという。古窯址は見つかってはいないが、これだけの巨大な兵馬俑を焼成するなら近くにあるに違いない。兵馬俑坑から200メートル離れたところに兵士俑や陶馬の焼き損じた陶片が発見されているので、ここが窯址なのかもしれない。
今日の技術でも等身大の俑を造るとなると失敗が多い、例え失敗作がなくとも、当時、陶工80人が12年間の歳月を費やさなければならない勘定になるようだ。兵馬俑を焼成するために大型の窯を築窯しなければならず、しかも、造りも丁寧で肌や衣服などを白、黒、赤、緑と彩色した地下軍団『兵馬俑』…これらも始皇帝の壮大な構想の一部だ、というから驚きである。
万里の長城も黄河の粘土
中国では始皇帝が天下を統一した紀元前221年、初期の「万里の長城」を完成させている。
この時、秦の人口が500万人だった。30万人の軍隊で北のオルドス地方を攻撃し、匈奴を北方へ追いやった隙に350万人の農民や奴隷を総動員して造ったといわれている。
匈奴の侵入を防ぐため建設されたこの「万里の長城」も黄河の粘土で造った。黄河の土に水を含ませたのち、乾燥させると、しっかり固まるこの硬化作用を利用して木枠を沢山作って、その中に黄河の粘土を入れて造られた日干し煉瓦で、これを黄土のパテを挟んで積み重ねて城壁を造っている。砂漠地帯の内モンゴル地区では、陰山山脈で採掘された石を積み重ねて建設され、この特質を都市の城壁建設にも採用した。
河南省と陜西省にまたがる中原地帯には中国文明の発祥地であり遺跡が多い。陜西省の咸陽市付近には皇帝の墓が18基、陪葬墓にいたっては600基を越え、畑の中から秦代の宮殿の焼け跡がみつかっている。この一帯は黄土台地が広がる乾燥地だ。風に舞うほどの細かい黄土に抱かれていた遺跡にあった膨大な埋蔵金属器は2000年を経ても錆びず、木造物や木製品は腐らずに発掘されたといえる。
秦の都・咸陽(かんよう)近くでは青銅器を写して彩色を加えた土器「加彩陶」が、のちの「漢の緑釉」や「唐三彩」などの明器(めいき)の先駆けとなる副葬品として焼かれた。
また秦代は焼成技術が発達し、優れた『灰陶』(かいとう)が焼かれていた。二ッの村が並ぶ丘全体が巨大な宮殿の土台の上に造られた阿房宮など始皇帝によって大宮殿を築かれている。
この時代の陶磁器は始皇帝陵墓の兵馬俑の陰に隠れるが、東西800メートル、南北150メートルという広さの阿房宮で使用するために硬く焼きしまった『灰陶』の壺や甕で、華北や華南で焼かれていた。
あの印象的な袋状の三本足の先端にもつ「三足鬲(さんそくれき)」はおおらかな膨らみをもつ丸底で縄蓆文などの文様があるものが特徴となっている。
春秋戦国時代(前770~前221年)を潜り抜け、ようやく中国史上初めての統一王朝となった秦であったが、始皇帝の死後、わずか3年後の紀元前206年に秦王朝は崩壊した。紀元前202年、「四面楚歌」の故事を生んだ楚の項羽との“垓下の戦い”(がいかのたたかい)で敵を欺き勝利した劉邦による漢王朝(前漢)に取って代わられた。
その後、漢の武帝は朝鮮半島を植民地にして領土を拡げ、漢代の灰陶の流れを汲む還元焔焼成の硬質土器「灰陶」(かいとう)の技術を朝鮮半島に伝えることになる。
‥‥陶のきた径⑤へつづく
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