金重素山‥‥火・水・土の恩恵を知る‥
備前出張の帰途に、京都へ立ち寄ることが多かった。
備前で気に入ったものをバックに入れ、ホテルで取り出してみる。
なかでも思いだすのは金重素山の瓢形徳利である。
四条河原町の花屋で求めた一輪の白玉をホテルの窓際に活けてしばし眺めた。
どっしりとした造形に箆目が縦に入れられていた。窯変の変化に富んだ土肌からその動きが感じ取れて「よう焼けた備前はええなぁ」と、ひとり悦に入る。
素山は1970年1909年3月31日 岡山県和気郡伊部村に備前焼窯元 金重楳陽(慎三郎)の三男として生まれ、七郎左衛門と名付けられた。父が亡くなった時、小学校へ通いはじめた7歳の時であった。
陶の道に入ったのは昭和2年、兄陶陽の下手間となった18歳の頃である。ようやく窯焚きが任せられるようになったのはそれから14、5年経った頃だという。
13歳上の兄・陶陽は、兄であると同時に、父親のような役目を果たしていた。父・楳陽直伝の何ごとも体験で覚えさせる主義に則り、陶陽も特別な指導をせずに窯入れ、窯焚きなどを素山に伝えた。
「我々は貧乏生まれの貧乏育ち、しかし心の貧乏だけはすまいぞ。心が貧しくては作品に品位がなくなる」と13才年上の陶陽はいい、兄弟というより子供のように可愛がられた。
「慣れない窯入れで、よく素地物を壊したりしたが、兄は決して怒らなかった」と素山は振り返る。
昭和16年、金重素山の元に招集礼状が届いた。金重家が熱心に信奉していた大本教の出口王仁三郎聖師(1871~1948)は「この戦争は負ける」と予言していた。陶陽は「負ける戦争ならば、死ぬものと覚悟せねばならない。弟(素山)がいたら(一年に)2窯焚けるのに、1窯で生計を立てるのには、どうしたらいいだろうか」と本気で考え、40日間、じっと座ったままで窯の構造を変えることを考え続けたという。出口王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」と主張し、1944年、耀琓(耀盌・ようわん)と呼ばれる独創的な楽茶碗を1年余りで3000個を創り出している。
宗教法人「大本教」は開祖・出口直(なお)を初代教祖に1892年に綾部で開教した。書をはじめ、陶芸、織物、能楽など芸術文化を大事にしていた。直の五女すみ(澄子・すみ子)は明治33年に上田喜三郎と結婚し、上田は出口王仁三郎(おにさぶろう)と改め、大正7年、直の死後、自ら二代教主となる。明智光秀の居城・亀山城址を大正八年(一九一九)に買い取り、石垣を再建して大本の聖城を建設するなどそのカリスマ性をもって宗教・芸術一元論を提唱して教団と教理の確立に努めた。王仁三郎の没後二年を経て、父の遺志を長女・直日(三代教主)と五女尚江へ、そして三女聖子は四代教主、そして現在の五代教主出口 紅(くれない)へと継承されている。
書道、茶道、能楽、短歌、八雲琴など日本の伝統文化に習練していた直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは金重陶陽である。窯(瑞月窯)と作業場も整え、手ひねりのぐい呑100点を作って直日の陶芸への本格的な歩みが始まった。
昭和26年(1951)には京都清水にあった本格的な登窯を大本教本部のある亀岡の神苑「天恩郷(てんおんきょう)」に宇野宗甕の弟・三吾から寄贈され移築した。同時に「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場も開設され、石黒宗麿は轆轤の指導しており、石黒によって陶陽や素山の作風にも影響を与えた。この年、素山42歳、大本三代教主・出口直日の招請によって亀岡の大本本部に出向いて、直日に日常の什器を焼くための陶芸指導するようになった。
「神の力による大自然の恩恵を知れば、その反面、恩に報いる気持ちが当然、起こる。これが作陶に多大な影響をもたらした」と素山は直日のお陰で、火・水・土の恩恵を知らされ、直日教主のお陰で心眼を開くことができたという。
宗麿から李朝系や唐津風、そして磁州窯風の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手、鉄釉などの指導を受けた素山は綾部市にある梅松苑の鶴山(つるやま)窯で信楽のほか灰釉、呉須絵、天目釉を一緒に焼いている。花明山・鶴山時代を合わせて13年間、素山は信楽へも行き、陶陽窯の窯焚には帰るなど伊部と亀岡を往来した。その後も時には一ヶ月も亀岡に滞在し、陶陽が亡くなるまで伊部と亀岡を往復していた。
こうした大本教窯芸道場には先の宗麿をはじめ陶陽・素山・宇野三吾・北大路魯山人・荒川豊蔵・河井寛次郎・小山冨士夫・加藤唐九郎など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集まるようになり、さながら陶芸文化サロンの様相を呈していた。
素山55歳の時、京都から岡山に戻り、独立することとなった。岡山後援者・前岡山ガス社長の岡崎眞一郎や岡山の有力者からの協力で、素山は、昭和39年(1964)、岡山市中区円山の笠井山の麓にある曹源寺の森閑とした裏山に登窯を築いた。当時は瀬戸内の児島湾まで望めた。曹源寺は岡山藩主池田家の菩提寺である。二代藩主池田綱政が元録11年(1698年)に、高祖父恒興と父光政の菩提を弔い、曹源寺開山と同時に自らの菩提寺もここに定めて以降、池田家の墓所が整然と配置されている。山号を護国山といい、絶外和尚を開山に迎えた由緒ある臨済宗妙心寺派の禅寺である。
「伊部にある熊山という霊場とされている山が『素山』だ」と命名したのは大本教の三代教主出口直日の夫で教主補の出口日出麿であった。この円山では55歳から73歳まで18年間ほど茶陶を中心に作陶した。
素山陶芸で特筆すべきは円山窯築窯の二年後、思考錯誤の末、電気窯でも潤いのある緋襷を焼成することに成功したことである。 むろん素山は京都での電気窯焼成の経験を活かされているだろうが、薪窯で焼くという概念を覆して備前焼の世界に革新をもたらした。
「兄貴は備前の仕事を全部やってしもうたけど、緋襷の仕事だけ俺に残しといてくれた。俺の為に残しといてくれた仕事が緋襷なんじゃ」と試験焼のテストであるにもかかわらず一番いい白地ばっかりを試験窯に入れる。20回程の失敗を繰り返して、思考錯誤の結果、四昼夜かけて電気窯で焼成し、最後に松薪で還元をかけた。こうして潤いのある白地の焼肌に鮮やかな緋の筋を交差させた緋襷を成功させたのである。
“備前最上の土という観音土”は水簸してしまうと、白い土肌の中に細かい鉄分が含まれている「モグサ」がでなくなってしまうから、砂けの少ない浅葱色がかった観音土を粘りがでるまで寝かせてから水簸せず使って成形した。また湿気や焼き過ぎは地肌を暗くし、緋襷の緋色が冴えない。素山の作る緋襷はシットリとした白地焼肌に緋色の筋が交差している。その様はとても、電気窯で焼いたようにはみえず、「登窯ではこの緋襷の味はだせない。電気窯より、良い緋襷はできない」と素山の長男・金重愫(まこと)も緋襷には電気窯が最適だといっている。
岡山市円山で18年間作陶した素山は古備前の名窯・南大窯などの古窯址の眠る南大窯跡と同じ榧原山麓に新たに穴窯風の登窯「牛神下窯」を築窯した。金重素山の造る茶碗には、桃山備前に勝るとも劣らない神経の行き届いた風格がある。その造型力、彫刻的要素が満載された高台削りは他の追従を許さず、その源は兄・陶陽とともに仕事をした経験であり、これが作家としての大きな柱となっているのだろう。
素山の手はあまり大きくないが、肉厚でふっくらとした手だった。「やっぱりその思いが自分の手にもあったんじゃないかと思うし、あの色気とか、あの線とか何とか、やっぱりあの手から出てきたんじゃないか」77歳の時、「こんな手で轆轤の喜寿の春」という句を書いた。
「わしが使いたい、わしが面白いと思う茶碗を作りたい」と非常にゆっくりと回る轆轤で挽かれ、「わしは六割までしか轆轤をやってないんじゃ」と神経の行き届いた箆で豊かで雄渾の線を作り出す。高台削りは彫塑的な芸術性をもっていた。切磋琢磨の結晶がもたらすいぶし銀の味、気風が溢れてる。
素山は京都亀岡の花明山窯、綾部の鶴山窯をはじめ、信楽、美濃、唐津、越前須惠、筑前須惠、倉敷鶴形窯、越中瀬戸など多くの地で作陶しているが、備前焼の中心地・伊部の窯元に生れ、伊部を誇りに思い、多くの人が箱書する「備前」という冠を書かずに「伊部」とし、「伝統の地で作陶できることに感謝する心が大切だ」というのは、まるで若い作家へ遺言のように響く。
1995年平成7年12月27日、岡山県山陽町の病院で肺炎のため、86才で亡くなった。金重道明の逝去したわずか一週間後だった。
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