2024年02月07日

宇田川抱青【1】…群れずに独尊を貫く陶芸家1

宇田川抱青

著名な陶芸展である日展や日本伝統工芸展をはじめ現代の陶芸界には多くの公募展が存在する。それらは陶芸家の登竜門として多くの作家に支持されている。

ところが一部の陶芸家は陶工としての原点(土・造・焼)をみつめ直して我が道を貫いて生きる一匹狼的な陶芸家も存在する。

彼らは束縛を嫌い地元の組合や陶芸協会にも属さないの作り手が多い。そのあと押しをしたいと願って交流した個性豊かな陶工の生きざまをご紹介してみたい。

群れずに独尊を貫く陶芸家‥‥第一回目は 宇田川抱青である。

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「長門の耶馬渓」といわれる山口県の長門峡は画聖・雪舟も画筆を揮ったほど素晴らしい渓谷美である。ここは約1億年前の大規模な火砕流でできた地層だとされている。

世に知られるようになったのは明治32年(1899)、地形図が作成されてから。大正9年(1920)、地元萩出身の日本画家・高島北海(1850-1931)がその渓谷美を嘆賞して「長門峡」と命名された。

高島北海の山水画(Wikipedia) 
Musée de l’École de Nancy

長門峡の渓谷は全長12キロメートル、ここを源に発する阿武川が、県下最大の阿武川ダムを経て橋本川と松本川の2つに分かれ萩市市街地に三角州を形成して萩の町を潤し、日本海にそそいでいる。

安芸国の領主から、中国地方全域(安芸・周防・長門・備後・備中・出雲・隠岐・石見の8ヵ国)を統一した毛利輝元は120万5千石の大大名だった。関ケ原の戦いで西軍に組しながら、合戦を傍観。合戦後、周防・長門の防長2ヶへと領地を大きく減らされたが、慶長9年(1604)、毛利輝元は日本海に突き出た指月山に萩城を築城した。萩の町筋は画され、白壁の武家屋敷や町家が軒を連ねた城下町が形成されてきた。

長門峡からの流れ
抱青の運転で毎年数回訪れ渓谷美を堪能させていただいた

長門峡から発した阿武川の支流・遠谷川沿いが抱青の故郷・川上村である。

たまに狸、猿、猪も出没する遠谷は長閑‥‥まさに『青山緑水是我家』だ。

清流の遠谷川に沿った笹生筏場線をさらに上れば佐々並方面へでる。

宇田川邸前に広がる稲田
背景には抱青が毎年、枝打ちをしていた杉木立
樹木を切り倒す時は「申し訳ない」と手を合わす

1946年 ここ山口県阿武郡川上村遠谷(2005.03.06から萩市川上)で代々、林業兼農業を営んでいた。ご尊父はいつも端然とした長州武士のように矍鑠となされていた。長男は萩市内へ、次男は東京へと遠谷を離れた。ご尊父は三男の忠信(抱青)に家督を譲られ、昭和63年(1988)に亡くなられた。

抱青は大粒の涙を流し、誰はばかることなく号泣…。母と姉に助けられ作陶生活を送っていた。平成16年(2004)、ご母堂様は84歳で亡くられたが、抱青はその11年前の平成5年(1993)に亡くなっている。

陶房にて御母堂様(1987年)

「母の傍らから離れないほど、小学から中学生までおとなしい性格だった」と陶芸家抱青を支えた姉(禎子様)はいう。中学を卒業し藩校明倫館の流れを汲んだ県立萩高校時代に進学、ここで多くの友をえて、性格は自己を主張する積極性をましてきた。

卒業後、東京のゴルフ業界誌のルポライターを経て、昭和47年(1972)、兄の宇田川聖谷(1940年生 本名:恵聖)とともに自宅の横に「丹妙山窯」を築窯した。ここで10年間、三輪休和の内弟子だった玉隆山吉田萩苑とも交流して腕を磨いた。

◇◆◇

昭和53年(1978)、丹妙山窯を訪ねた時、はじめて抱青に出合った。

穏やかな窯主の聖谷さんと違い、傍らで黙々と仕事をする弟の抱青は眼光鋭く、第一印象、気骨ある青年だとおもった。

夜、誘われて抱青行きつけの寿司屋などに連れて行ってくれた。‥‥何度目かのことである。

「僕はこんなものを作っています」と端正な轆轤の煎茶碗や土塊を刳貫いた花器を見せてくれた。そして、

「僕でも独立してやっていけますか」と相談された。ここ数年来の付き合いで独立する気持ちがあるように感じていたので驚かなかったが、独立する気持ちがあるのなら、ぜひお手伝いしたと考えていた。

「もしこの近くで築窯するのなら、丹妙窯と同じことをしては独立する意味がないので、窯・焼成・土・釉薬などを新たに開発しないとね。独立独歩、それに徹するならやって行けるよ。全面的に協力するから」と諸手を挙げて賛成した。抱青も喜んで同感してくれて、はじめて彼の泪をみた。

遠谷の青山緑水の里山で”天の山”を意味する『天山山脈』に想いを馳せ、

”自然を友として空の青、水の青、山の青さに囲まれて作陶したい”と号を「抱青」とした。

また窯名は『白萩』に魅せられて「白登山窯」と決められた。『白』にこだわりがあったのだろう。

憧れていた天山山脈(Wikipedia)
ハン・テングリ(7,010 m)

”萩中興の祖”ともいうべき三輪休和を尊敬する抱青の意向を考慮して私からお願いしたことは、

「温かみのある萩焼を狙って、できれば窯の煉瓦は分厚く造り、その焼成時間は長めに」‥‥

分厚い登窯を遠谷川に沿って築窯、外観からは想像が出来ないほどその内部は狭い窯だが、保温力抜群、望んでいた温か味を感じさせてくれる作品が生れてくる予感が、、、

「焼成は最初から最後まで赤松で、ガスなどは使わないで」‥‥

合理主義を嫌い、個人作家としての気概を持って手間暇を惜しまずに自然派陶工に徹する。

「土は大道やほかの土でも自ら原土を選び、土練機などを使わずに昔ながらの足踏みでブレンド」‥‥大道の原土を叩き、より分け、そこに鉄分の多い見島土(みしまつち)や耐火度のある金峯土(みたけつち)を合わせながら足で念入りに踏み、水簸せずに粘土を造った、、、粘土の粒子が揃っている市販されている土を使う作家が多いことが、気になっていたからである。

「白登山窯」

昭和57年(1982)、登窯「白登山窯」築窯しての初窯焚きを成功させた。

         ‥‥宇田川抱青②につづく

抱青作品で一服 
菓子:「春の山」金沢豆半
※(Wikipedia)以外の写真:黒田草臣

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宇田川抱青 ≪陶歴≫
1946   
山口県阿武郡川上村生れ

1964 
山口県県立萩高校卒

1972   
兄・宇田川聖谷と共に丹妙山窯開窯

1978  
当苑と交流をはじめる

1982  
独立して遠谷川に沿って白登山窯築窯

1983  
しぶや黒田陶苑にて初個展

1984  
以後、当苑にて毎年個展

1986  
-新宿・伊勢丹にて以後毎年個展

-唐津・備前・京都・美濃等の窯業地

-朝鮮半島の鶏龍山など古窯址をともに巡る

1993  
肝硬変にて死去(3月13日)

1993 
「回顧展」(於:伊勢丹本店)

1999 
「回顧展」(於:しぶや黒田陶苑)

2009 
「懐古展」(於:しぶや黒田陶苑)

2018  
西岡小十と宇田川抱青展(於:しぶや黒田陶苑)

長門峡にて
(撮影は次男の写真家・宇田川智弘)

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