漢字や仏教をはじめとする芸術文化や飛鳥寺の建築、さらに瓦や須恵器の手法を伝えるなど百済は倭と親密な友好国であった。
2007年ころに念願の百済(くだら・ペクジェ)の都・扶余へ行くことができた。
あの「白村江の戦い」(663年)の舞台となった錦江(クムガン)下流の白馬江(ペンマガン)は百済の一番大きな川という意味らしく、百花亭から見るその滔々と流れに百済の古都公州(コンジュ)時代の熊津江(ウンジンガン)、扶余の泗沘(サビ)時代の白馬江の悲劇をも知る時空を呑み込んだのかと、しばし動けずにいた。
山城の泗沘(しび・サビ)城のあった扶蘇山(プソサン)へ登り、北側の険しい岩の上に建てられた百花亭からを望んだ。ここは3000人という多くの女官たちが身を投げたという悲しい伝説を生んだ落花岩(ラッカガン)だ。さらに急な石階段を降り、瓦屋根の木造船「白馬江遊覧船」に観光気分で乗船した。白馬江の船上から落花岩の絶壁を眺め、しばし古代国家百済の一端に触れることができたと思った。
扶余官北里の定林寺(チョンニムサ)は百済の滅亡まで百済王室のもっとも重要な大寺院として栄えていたというが、唐の大軍13万が押し寄せて百済の仏教文化もろとも寺を破壊してしまう。その時から1400年近く時が止まったかのような、あたり一面の殺風景さには衝撃を受けた。瓦を基壇としていた定林寺の回廊址、その荒れ地にあった百済塔の石塔だけが百済遺跡を語るたった一つ残る建造物となっていた。
31代678年の歴史があった百済は唐と新羅の連合軍に攻められて滅んだ。第31代、百済最後の義慈王(ぎじおう)と王族・貴族の50人らは捕虜となって唐に連行された。
この石塔には「大唐平百済國碑銘」らしき文字が刻まれている。唐の大軍を率いた将軍蘇定方が「唐が百済を平した碑」という戦勝記念の碑にされてしまったのだ。
扶余郡泗沘(サビ)時代は120年つづいた百済の都である。当時、百済の扶余には60万の人々が生活していたが、2022年の扶余郡の人口は約6万である。滅亡から新羅・高麗・李朝へと1350年が経過したとはいえ、朝鮮半島の人々に忘れ去られたかのような寂しさを感じた。(2015年、扶余の「百済歴史遺跡地区)はユネスコ世界遺産になり、現在は公園として整備され、漸く日の目をみたかのようである)
丁度、定林寺址の発掘作業が行われていて蓮華文軒瓦をはじめ多くの瓦が発掘され、堆く積まれていた。近くには「百済金銅香炉」など百済の文化財が展示されている「国立扶余博物館」が、1993年8月に開館したばかりであった。歴史テーマパーク百済文化団地には百済歴史文化館のほか泗沘(サビ)宮の天政門・天政殿・文思殿・陵寺・五重塔などが再現されている。
百済王室の重要な大寺院だった定林寺址は整備され、金堂址、中門址、回廊址、講堂址など建物を南北一直線状に配置した典型的な百済様式が世界遺産として保存されている。敷地内に建てられた「定林寺址博物館」には当時を再現した模型も展示されている。
百済の漢城時代は温祚(おんそ)王から
百済の始祖は東北の扶余系出身で、高句麗の始祖・朱蒙の次子・温祚(おんそ・在位BC18-AD28)といわれ、長子沸流(ピリュ)、高句麗王妃だった母召西奴(ソソノ)と烏干(オガン)・馬黎(マリョ)ら10人の家臣ともに高句麗を離れて南下し、沸流は帯水(漢江)を超えて弥鄒忽(ミチュホル・現:仁川インチョン)で国を建てた。沸流の死後、温祚は紀元前18年(前漢鴻嘉代)に北漢山(現:広州郡河南(ハナム))の地で慰礼(ウィレソン)城を都として「十済」(シプチェ)を建てて夫餘氏を名のり、のち「百済」と改めた。(「温祚」の名の由来は、温かな徳を備えた天子をも意味する。)
温祚王一代で得たその領域は北朝鮮の狼林(ランニム)山脈に水源を持つ浿水(バイスイ・現:清川江)から東は走壌(現:江原道春川・チュンチョン)、西は大海(黄海)、南は慶尚南道の熊川(ウンチョン)に至った。(現在の韓国の教科書では紀元前18年に南下して漢江上流に2年かけて慰礼城を築いて都を定めて建国したとされる。)
これが百済の漢城時代( BC18年~AD475年)の幕開けで、百済全盛時代の4世紀には高句麗や新羅をも圧倒して朝鮮半島の大部分を占める広大な領地をもっていた。それを物語るかのようにこの周辺には約290基の墓があった石村洞古墳群など百済前期の墳墓群がある。
百済の起源が史料に明らかになるのは、朝鮮の三韓のひとつ馬韓地域に伯済(はくさい)国を母体として統一し、現在のソウルの漢江の南岸に漢城を築き独立国家となった346年のことで、百済国第13代近肖古王は平壌まで攻め入り371年、高句麗の平壌を攻めて故国原王を討ち取るなど高句麗に対抗していた。
この頃から倭国の軍事力支援をもとめ、367年、倭国と通交も始まり、七支刀(369年に作成)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたと日本書紀にあ、現在、奈良の石上(いそのかみ)神宮に所蔵されているおり、七支刀の銘文から倭国と百済の国交を今に伝えている。
百済国第13代近肖古王は371年、高句麗の平壌を攻め入り高句麗16代故国原王を討ち取って平壌を占領して都を漢城(南漢山城)に移した。当時、中国江南地方を支配していた東晋に遺使して文字を取り入れるなど無名だった百済は国際的にも地位を安定させた。384年には僧が来て仏教が伝来している。
近肖古王は故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の19代広開土王に反撃された百済は新羅や倭国と同盟を結んだ。百済の陶磁史では21代蓋鹵(がいろ)王時代(455~475年)にはそれまでの軟陶の赤褐色の土器(弥生土器系統)で深鉢や壷形の煮物や蒸し器、坏皿、三脚など形態もさほど多くなかった。海を渡って窖窯が導入されたことで、硬く焼締まり、轆轤による実用性が加味された。蓋付坏、蓋付壷、横瓶、合子、糸尻のある鍔付埦などの陶質土器が製作されるようになり、時の陶工・新漢高貴(シナンコギ)は日本に派遣され、その技術がのちの須恵器となっていく。
475年、広開土王のあとを受けて高句麗の全盛期を現出した第20代長寿王は平壌に遷都し、百済に対する圧力を加え、初期百済の首都・漢城(慰礼城)を落し、百済21代蓋鹵(がいろ)王が戦死してしまうほど百済を圧倒した。これによってソウルは高句麗の支配するところとなり、高句麗は満州南部のみならず遼東、朝鮮半島の大部分を支配下におさめた。
漢城を奪われた百済にとっては壊滅的な敗戦だった。南に逃れた文周王が現在の公州の熊川(錦江)のほとり現在の公州市で、巨大な山城(公山城)を築いて百済を再興させ、熊津(ウンジン)時代(475-538年)が到来する。
筆者は2007年、扶余に行く途中、李朝時代の官窯・利川に対して900年もの伝統を持つ民窯最大の窯業地・聞慶(ムンギョン)を巡り、さらに3度目の訪問となる鶏龍山古窯址を散策してのち、鶏龍山や務安の出土品が展示してある大田の博物館を見学してのち公州に向かった。ここ公州を第二の王都としていた百済。美しく整備された宋山里古墳群の一角に武寧王陵があった。百済は高句麗に侵攻されていたが、武寧王が25代国王になり、512年、高句麗に壊滅的な打撃を与え強国に導き、「百済中興の祖」といわれている。日本書記には461年、百済王の側室が倭国に向かう途中、加唐島で武寧が生まれたとされている。
武寧は41歳まで倭国で生まれ育ち、王妃も倭人であった。武寧王陵の王墓は王妃を合葬した磚室で、棺材の素材が日本にしか自生しない高野槇と判明した。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝の銅鏡、陶磁器など約3000点が盗掘されずに出土している。
武寧王亡きあと即位した第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)の時、百済は高句麗からの攻撃を受け、538年、都を熊津から、錦江の下流にあたる忠清南道扶余郡にある泗沘(サビ)へ遷都した。
紀元前、この地方では野焼きによる軟質の赤褐色土器を生産したが、高句麗や楽浪の窯で焼成する技術が伝わり、1000度以上の灰青色の硬質土器(百済陶質土器)が焼かれ、伽耶陶質土器の影響もみられるようになる。
泗沘(サビ)時代(538年~660年)にはあらゆる用途の百済陶質土器が規格化、専門化されていく。
漢の影響を受けた北方の「高句麗陶質土器」。それとは違う中国南朝ルートで伝播したと思われるのが「百済陶質土器」や「伽耶陶質土器」である。百済や伽耶に伝えたのは中国の揚子江(屈家嶺(くつかれい)、良渚(りょうしょ)などの高度の文化を受け継いだ集団であった。
陶質土器伝播の経路は朝鮮半島北部の高句麗に伝えた陸路ではなく、海路を使った一つの理由は、渤海湾から遼東半島、北朝鮮の平壌付近までを支配していた強大な燕が、長江中下流域で呉越と対峙していたからだともいわれている。紀元前5世紀の呉と越の戦争に由来する「臥薪嘗胆」とか、孫子が例えた「呉越同舟」という故事を生んだ呉越‥‥越が呉を紀元前473年に滅ぼし、呉の滅亡から約140年後、越は長江上流域にいた楚に滅ぼされた。ここは秦の始皇帝や前漢武帝も武力介入した土地で、長引く戦乱の世に別れを告げようとした人々の朝鮮半島への逃亡があったともいえるからである。
前後して稲作水稲文化もった農民が九州(吉野ヶ里遺跡、板付(いたづけ)遺跡や菜畑(なばたけ)遺跡など)に伝え、呉の滅亡後から陶工たちが朝鮮半島西南部に亡命して制作したその陶質土器の技術が百済そして伽耶へ、そして倭国、新羅へと伝わったと考えられる。
この中国南部の長江中下流域では稲作とともに黄河の竜山文化と共通する黒陶や卵殻陶も焼かれた屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)、良渚文化(りょうしょぶんか)などが硬質の灰陶を焼成する“長胴式窖窯”が築かれていた。すでに降灰が溶けて自然釉となるほどの高温で焼かれているが、この焼成技術が南沿岸部から黄海を渡って朝鮮半島西側の錦江流域や木浦・栄山江流域で伝わり、硬質の「百済陶質土器」を誕生させたと考えられる。同じルートで蓮花文瓦当などの瓦つくりに影響を与えて最終的には、百済様式に変化していく。
2008年4月、6世紀後半に建てられた日本最古の寺院とされる飛鳥寺のモデルが百済の王興寺ではないかと「朝日新聞」で報道された。王興寺は百済第27代・威徳(ウィドク)王が、先立った王子の冥福を祈るために建てた寺院という。飛鳥寺は奈良県明日香村にある法興寺である。
日本書記には、「飛鳥寺建立のため、577年11月、百済王(威徳王)が技術者を日本に送り、588年に仏舎利を送った」という記録が残っている。558年、「百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された」と日本書記にあり、技術者による交流があったことを示す飛鳥寺(法興寺)の瓦が王興寺とよく似ている。当時の日本で初めて使われた瓦である。
この頃、百済では三足土器と平底形土器が円筒形、高杯形、長鼓形、硯など多様な陶質土器が多く作られていた。百済時代の末期には、青緑色や黄褐色の釉薬をかけたものも現われた。
百済土器の特徴は器面に繩蓆文が多く表されて点や、こと、壺などを置く特異な形の器台が作られ始めたことなどを挙げることができる。このなかで三足土器は他の地域では作られない特別なもので、器台は日常的なものではなく儀式に使用したのではないかと見られている。中でも高杯形は伽耶土器と類似しており、地域交流をしていた証拠だと言える。長鼓形は、渦線形の装飾や、円形またはハート型の透孔などを持った百済の典型的な器台で、扶余地方で多く発見された。
また百済土器は、焼成方法と温度によって赤褐色軟質土器、黒色土器、灰青色土器などに分けられる。赤褐色軟質土器は、無文土器と同様に胎土が荒く、花盆模様のものが多い。黒色土器は、表面を研磨して光沢を出したもので、ソウル近くの漢江流域や扶余地方で発見される。
また稲作の普及と呉の滅亡は、ほぼ時期が一致することで、「倭人は呉の太伯の子孫」という説もあるから朝鮮半島を経由せずに直接、呉の農民が稲作水稲文化を倭に伝えたとも考えられるのだ。
百済は楽浪と高句麗の影響で砂が混じった粘土で成形した薄褐色や赤褐色の軟質土器が焼かれ、それより高度な表面を研磨して光沢を出した竜山文化で焼かれたような「黒色土器」を100年頃まで百済の都のあった漢城(ソウル)近郊の漢江や扶余の錦江付近で造っていた。扶余面錦城山北麓の斜面を刳り貫いた窖窯の址も発見されている。錦城山王朝寺出土の「獣脚円面硯」と同様の硯が奈良県明日香村石神遺跡から出土している。
ところが陸路による北からの影響ではなく、直接、中国長江付近から技術が海を渡って扶余の錦江以南の栄山江(ヨンサンガン)にやってきた。それは灰青色の「陶質土器」の三足土器や平底形土器で、日常的なものではない儀式祭礼用の祭器や古墳に埋葬する明器で、円筒形、高杯形、長鼓形など「伽耶土器」との類似したものもみられる。また緑釉が施された獣足壷、緑釉瓶の明器も焼かれたのである。
659年、百済は新羅に攻め入り、新羅は唐に援軍を要請した。新羅の武烈王は即位前から唐と密接な外交関係を築いていたので、唐は13万の大軍を派遣した。百済の都・扶余は唐・新羅連合軍によって陥落、60万の人々とともに全滅させ、668年には高句麗をも滅ぼした。
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