朝鮮半島の古代国家の一つ百済(くだら・ペクチェ)は、高句麗を建てた朱蒙(チュモン・東明聖王)の第三子の温祚(オンソ)が吉林省扶余から南下して、紀元前18年、漢山(京畿道広州市)に十済(のちの百済)を建国したといわれている。
第13代目・近肖古王(きんしょうこおう・クンチョゴワン・在位:346~375)は大規模な城を築いた。日本や中国の史書にはじめて名が現れる百済王で地方行政組織を整備し、科学と技術を発達させ、それまでなかった文字(漢字)を使って優れた文化を花咲かせ、百済王国の最盛期を築いた。
この百済との同盟関係にあったのが倭国である。おりしも青銅器の時代から鉄の時代へ、丈夫な鉄の武器や製鉄の技術を求めていた倭国。
『日本書紀』には、372年9月に百済の近肖古王から鉄製の七支刀(ななつさやのたち・しちしとう)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝が献上されたと記載されている。

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贈られた七支刀は儀礼用の剣として奈良県天理市の軍事をつかさどった豪族・物部氏の氏神である石上神社に伝わる国宝(1953年指定)だ。左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした剣で、全長74.8センチで、下から約3分の1のところで折損している。刀身の表に34字、裏に27字、表裏併せて61字の銘文が金象嵌で表わされいたが、錆による腐食が多く、その解読が明治以降続けられており、判読には諸説があるが、2005年、奈良国立博物館X線CT画像撮影のよって現在では凡そ次の様に解釈されている。(※太字は2025年、 X線CT撮影調査で判明した文字)
(表面) 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵供供侯王□□□□作
(表面判読)泰和四年十一月十六日丙午正陽(丙午の陰暦四月の間)、百練銕(鉄)の七支刀を造る。出(すす)みては百兵を辟け、供供たる侯王に宜し。■■■■作る。
(裏面) 先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
(裏面判読)先世以来、未だ此の(ごとき)刀有らず。百済王の世子、奇しくも聖晋に生く。故に倭王の為に旨造し、後世に伝示せ(られんことを)。
刻まれた銘文にある泰和四年は紀年369年、東晋の太和4年。百済の近肖古王の世子(のちの近仇首王)が百兵を退ける力をもったと記される七支刀を倭王のために作ったされている。
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ところで七支刀に使われた鉄はどの産地であったろうか。『日本書記 巻第九の二』には、
臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飮是水 便取是山鐵 以永奉聖朝 「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山(かねのむれ)から出ています。大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
この時、百済は漢城時代(~475)。その頃の製鉄は現在の忠清北道鎮川郡徳山面石帳里の製鉄遺跡で知られ、谷那鉄山は黄海北道谷山郡(コクサン)にある大岳山(標高1172 m)のことらしく、369年に百済が高句麗から奪った土地だといわれている。
肖古王は三年後に亡くなり、貴須王子が跡を継いで百済一四代目の近仇首王(クンチョコワン在位:375~ 384)となった。百済の北に侵攻してきた高句麗軍を攻め、平壌城まで追撃して高句麗16代王・故国原王 ( コググォンワン ) を戦死させている。
時は変わって『三国史記』の「百済本紀」阿莘王六年条に、
「夏五月、王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(阿莘王長子のジオンジ)を以って質となす。」とみえ、阿莘王六年とは397年のこととされ、百済が高句麗に破れた翌年、百済王は太子を人質に出して倭と誼を結んだことが記されている。
日本書記には
「百濟記云蓋鹵王乙卯年冬狛大軍來攻大城七日七夜王城降陷遂失尉禮国王及大后王子等皆沒敵手」‥‥
訳:蓋鹵王(がいろおう)の乙卯の年の冬に狛(こま・高句麗)の大軍来りて、大城(コニサシ)を攻むること七日七夜。王城は降りおちて、遂に尉禮(イレ・漢城)を失う。国王および大后、王子ら皆、敵の手に没(し)ぬと。‥‥『三国史記』には高句麗の謀略に漢城が三万の兵に囲まれて七日で落ちたことが記されている。
21代蓋鹵(がいろ)王時代(455~475年)にはそれまでの軟陶の赤褐色の土器(弥生土器系統)で深鉢や壷形の煮物や蒸し器、坏皿、三脚など形態もさほど多くなかった。窖窯が導入されたことで、硬く焼締まり、轆轤による実用性が加味された蓋付坏、蓋付壷、横瓶、合子、糸尻のある鍔付埦などの陶質土器が製作されるようになり、時の陶工・新漢高貴(シナンコギ)は日本に派遣され、その技術がのちの須恵器となっていく。新漢とは「新たにやってきた漢人」という意味。陶部 高貴(すえつくり こうき)といわれた朝鮮からの中国系の帰化人である。
高句麗・好太王(391~412・タムドウ)の南下に敗戦を重ねていた百済の第一七代阿莘王(あしんおう・在位:392 ~ 405)の時、倭国と修好をより深め、この侵略に百済は倭国の後ろ盾を望んだのであろう。
広開土王碑には「倭が三九一年に海を渡り百済、加羅、新羅を破り、臣民となした。」とあり、三九七年、倭と百済は国交を結び、倭によって百済の王族の婚姻が決められて、百済王の后は倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでは人質として倭国に来ていたほどでであった。
『古事記』と『日本書紀』とに、応神天皇の世に百済王が派遣した和迩(王仁)が文首の祖になったとある。この時期(四世紀後半)に漢字文化が百済から倭国(日本)に伝えられたのであろうか。
五世紀、中国の歴史書である『宋書』倭国伝には倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国南朝宋帝国に対して朝貢し、使者を派遣して時の中国王朝から冊封(さくほう)されることで高句麗の横暴をけん制するために倭王武の上表文(じょうひょうぶん)を宋の8代皇帝・順帝(477-479)に送った。武は『ワカタケル大王、のちに二一代雄略天皇』をいうらしいが、中国の宋書には中国皇帝と同じように漢字一文字が使われている。

『御歴代百廿一天皇御尊影』より
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倭の五王の最後の武王といわれる第二一代雄略天皇七年(四六二)の時、
「吉備の海部直赤尾(あまのあたいあかお) 雄略天皇七年八月条。吉備上道臣田狭(しもつみちのおみのたさ)の子、弟君と共に新羅を討つために半島に渡り、弟君がその妻樟媛(わかひめ)に殺された後、樟媛と共に百済の工芸技能者を率いて帰国する。」(日本書紀)とあり、
日本と友好的だった百済から、西漢才伎(かわちのあやのてひと)歓因知利(かんいんちり)の建言により、手先の器用な技術者である手末才伎(タナスヱノテヒト)を求めた。「新漢(イマキノアヤ)陶部高貴(スエツクリコウキ)(陶つくり)・鞍部堅貴(クラツクリノケンキ、馬具つくり)・画部因斯羅我(エカキインシラガ、画工)・錦部定安那錦(ニシキゴリジョウアンナコム、錦織り)・訳語卯安那(オサミョウアンナ、通訳) 」など専門の技術者を吉備瀬戸内の豪族であり新羅派遣将軍・海部直赤尾が率いて帰国し、大和の高志市郡(奈良県明日香村飛鳥)の上桃原(かみつももはら)と下桃原、真神原(まかみがはら)の三ヵ所に住まわせた、と『日本書紀』にある。
新漢とは応神天皇の時代に帰化した漢人(古渡)に対して、雄略天皇の時、帰化した人を今来才伎(いまきのてひと)または新漢と呼んだ。
百済は南下した高句麗に首都の漢城(ソウル)を475年に奪われ、熊津(ウンジン・忠清南道公州市)に遷都した。百済は高句麗の猛攻を受け、都のあった漢城が陥落し、百済王の惨殺という、まさに王朝滅亡の危機にあった。
ここで倭は“倭国在高麗東南大海中、世修貢職‥‥”からはじまる上表文を倭国の武王が順帝(後漢の第八代皇帝)に使者を派遣した。
「(中略)興(安康天皇)死して弟武(雄略天皇)立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍倭国王と称す。順帝の昇明二年(四七八年)、使を遣して上表をしていわく、「封国は偏遠にして、藩を外に作なし、(中略) 東は毛人を征すること五十五国,西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、(中略)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍 事安東大将軍倭王に任命する。とあり、中国皇帝により、武に「安東大将軍倭王に任ずる」と中国宋との冊封体制ができ、朝鮮半島における軍事権の行使を認められた。
忠清道公州市はかって百済が高句麗に追われて漢城からやむなく遷都した熊津の都のあったところだ。

宋山里古墳群から出土
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宋山里古墳群は1971年に墓誌「寧東大将軍百済斯麻王、年62歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」が発見され、25代武寧王 (没年523年)の武寧王陵と特定されている。鶏龍山から扶余に向かう途中にある宋山里古墳群、このあたりには王族の墓十基あるが、人を招聘するような扇面状の要にある王陵はなんとも美しい。
古墳は王妃を合葬した磚室墳といわれるもので、棺材が日本にしか自生しない高野槇(こうやまき)とわかった。この木は丈夫で水に強く古代日本の弥生、古墳時代では棺材として最上級とされて用いられていた。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国華南から舶載されてきた銅鏡、陶磁器など約3000点の遺物が出土している。
国立公州国立博物館には武寧王陵から出土した王と王妃の金製冠装飾、金製髪飾、王妃の金製耳飾りと銀製腕輪(ブレスレット)、王の足台など韓国国宝として展示されている。
首都の漢城が陥落して熊津に遷都した百済の聖明王はさらに538年に泗沘(サビ・忠清南道扶餘)の扶余泗沘城に遷都した。この首都扶余では優れた仏教文化に花を咲かせ、外国とも積極的な外交を展開した。554年、聖明王が新羅との戦いで戦死すると、百済は高句麗とも同盟を結び、連合して新羅に侵攻することになった。






