2024年01月01日

11 白村江の戦い:倭の援護むなしく

扶余落花岩(錦江)

中国では隋から唐に王朝が変わり、朝鮮半島では三国の中で一番弱小だった新羅は高句麗と百済に対する脅威から唐に援軍を求めた。

新羅からの要請で唐は高句麗を討つために北からではなく、軍船での南からの進軍を考えた。そこで、まず百済を征服しようとする。

金庾信(新羅)朝鮮半島統一の立役者(Wikipedia)

660年、山東半島から新羅の兵力の三倍近い13万の大軍を率いた唐は海路より進軍してきた。新羅の武烈王(ぶれつおう)と名将・金庾信(キムユシン)の軍勢五万と合計18万の兵士が百済の義慈(ウジャ)王に襲い掛かる。

こうなると多勢に無勢‥‥義慈王は妻や多くの太子たち王族ととともに長安に連行され、そして12270人の民は奴隷となった。日本の遣唐使一行が、洛陽滞在中に捕虜となった百済王や王族、貴族50数人が護送される姿を目撃したと伝えられている。

この年、義慈王は病死した。百済王族、貴族らの墓が西安や洛陽で10ヶ所が発見され、彼らは入唐後、3世代が唐に使えていたことが墓誌により明らかになった。

古墳時代の6世紀はじめ、百済は五経博士(易経・書経・礼記・詩経・春秋)を倭国に貢上し、漢字や儒教を伝えるなど倭国と盟友関係だった百済は、陶質土器の技術も伝えてくれた友好国であった。

倭国では飛鳥時代の仏教を受け入れようとする蘇我氏と神道派の物部氏が激しく対立していたが、蘇我馬子は物部氏を滅ぼした。

早々に百済に使いをやった538年、百済から仏教がもたらされた。倭国では645年、「大化の改新」で蘇我氏が滅ぼされ、中大兄皇子(のちの天智天皇)が政治の中心人物となっていた。

朝鮮半島では三国が対立し、先の唐を味方につけた新羅が百済を滅ぼした。

百済の将軍・鬼室福信は、百済復興の旗印として「扶余豊璋を百済の新しい王に」するため、

30年間、倭の人質となっていた豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求めた。

百済からの仏教文化の影響を受けて飛鳥京、明日香を石と水の都として建設させた37代斉明天皇(35代皇極天皇)は、深交していた百済危機の知らせを受けて激怒し、中大兄皇子、中臣鎌足らと、「百済の仇、新羅を滅ぼす」と、百済救援を決定した。時まさに倭の斉明天皇、唐の則天武后、新羅の善徳女王、真徳女王という女帝が君臨していたころである。

翌661年7月、斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮に移って百済復興の戦に備えていた。出陣の直前、朝倉宮で急死してしまうが、百済を再び興そうというその意思を継いだ皇太子・中大兄皇子は、661年9月、百済からの人質として倭国いた百済皇子扶余豊璋(ほうしょう)に5000人の兵と軍船170艘をつけて百済へ送った。百済へ帰国後、将軍鬼室福信と合流した皇子は百済王に推戴され、663年、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することができた。

斉明天皇の意を受けていた中大兄皇子は663年8月、那の津(博多)から47000人の兵を百済の都のある扶余に向かわせたが、百済では余豊璋と鬼室福信が対立し、鬼室福信が処刑される事態に陥り、倭軍の到着が10日ほど遅れてしまった。

加えて現在の錦江河口付近の海辺・白村江(ハクスキノエ)は満潮・干潮の差が大きくなる「大潮」の時期だったらしく、その差が最大7mあり、日本書記には「船舶不得廻旋」とあり、倭船は制御不能に陥った、という。

落花岩から白馬江を望む
白馬江の観光船

ここで水陸13万の軍を率いる唐軍は火矢を放ち、倭の軍船は燃え、1000隻のうち400隻を一日足らずで失った。白村江は倭軍の遺体で血の海に染まってての大敗であった。

百済の残存勢力も壊滅してしまい、31代つづき678年の歴史があった百済は滅亡した。と同時に120年つづいた百済の都・扶余は60万の人々とともに全滅してしまったのである。(※2023年4月末. 61,903人)

唐・新羅と転戦中の倭国軍を集め、急遽、天智2年(663)9月25日、唐・新羅水軍に追われる中、百済から亡命を希望する一万人といわれる多くの人々を倭船に乗せて出港し、やっとのことで帰国した。

沢山の百済貴族も筑紫へ亡命してきた。日本書記には、天智3年(664)、百済の亡命者「男女二千餘人」を東国 (伊賀・美濃・尾張等)に住まわせている。翌665年2月には百済の亡命者四百餘人を近江の神崎郡へ移している。

天智8年(669年)には百済の王族佐平餘自信(よ じしん)・鬼室集斯(きしつ しゅうし)ら男女七百餘人を近江蒲生に移住させている。のちの須恵器技術など彼らの専門知識が天智天皇(626~ 672)に重んじられていく。

天智天皇(Wikipedia)

朝鮮半島では唐の大軍は668年、北上して高句麗を滅亡させた。その余勢を駆って唐は百済の地に熊津都督府、高句麗の地に安東都督府、そして新羅の地に鶏林州都督府を置いて朝鮮半島を支配しようとしたが、これに反発した新羅は高句麗遺民の高句麗復興運動を支援しながら味方につけた。

その後、新羅は660年から6年にわたって唐と戦った。結果的に百済、高句麗を相次いで滅ぼした立役者だった唐の軍隊を新羅は遼東半島へ追い払って朝鮮半島の三国統一を果たすことになった。

こうしたことから4世紀半ば〜7世紀後半にかけて高句麗・百済・新羅が鼎立した朝鮮半島の『三国時代』、伽耶を除く三国だけが朝鮮半島を支配した期間は、伽耶が滅んだ562年から高句麗が滅亡する668年までの100年ほどということになる。

白村江の敗戦は倭国に深刻な危機感をもたらしたことで、

対馬の金田城、664年、大宰府を守る水城(みずき)をつくり、翌665年には大野城と基肄城(きいじょう)、667年には瀬戸内の屋島城、奈良の高安城などを日本防衛ための山城を築いた。(日本書記)

667年、天智天皇は飛鳥岡本宮から近江大津宮に遷都し、加えて律令国家という新しい国家の体制を急ぎ、その後を受けた天武天皇が「日本」という国号に変えたともいわれている。

‥‥次回 ⑫百済陶質土器が誕生

沢栗鎬手盆(拙作)

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