務安(ムアン)
朝鮮半島全羅南道西南部の海上に1890もの島々が浮かんでいる。
その多島海に面している木浦は李朝代末期に開港した港町で日本統治時代には日本人街があったほど、中国、日本との交易で栄えた町であった。木浦は青く澄んだ湖かと見間違えるような穏やかな港だ。
毎年春には木浦の港町で「陶磁器フェスティバル」が開催されており、2009年、無地刷毛目を焼いていた古窯址を巡ったあと、港が見える店で粉青沙器を制作する務安の陶芸家が推薦する魚介類をいただいた思い出が懐かしい。
務安といっても馴染みがないかもしれないが、しかし鶏龍山に影響を与えたといわれる由緒ある古窯址が点在しする務安は黄海につながる栄山江のお陰で中国や日本との交流があり、朝鮮半島全土へ影響も考えられる。
粉青沙器のといわれる日本人好みの素朴で深い味わいがる化粧土を巧みに使った粉引・刷毛目・三島、しいては粉青掻落、象嵌、粉青鉄絵などが朝鮮半島南西部にあたる全羅南道、全羅北道などで多く焼かれている。
古来より“茶の湯”でやかましい李朝初期の高麗茶碗の中に 高興、長興、寶城で焼かれた「粉引」(粉吹)と務安で焼かれた「無地刷毛目」がある。
「粉引」とは高台まで白い化粧土をずぶ掛けている手法。「無地刷毛目」は腰の付近まで素地を残して粉引と同じ手法でカオリンを刷毛を使わずに柄杓などで化粧掛けしたもの。粉引の様に化粧土を総掛けしていないので厳密には粉引とは言わないが、最近では務安粉引ともいうようになったようだ。
全体に化粧掛けして乾燥ののち透明釉を施す粉引、素焼をせずに白化粧するので、多くは乾燥する前に崩れて土に戻ってしまう。
そのリスクを克服するために務安の古窯址では高台脇と高台内には化粧掛けしないで、これを乾燥させてのち土灰釉を総掛けしたのだろう。無地刷毛目の茶碗や鉢、皿、徳利、片口などの秀品には独特の品格がある。「無地刷毛目」は刷毛を使ったものではない。
全羅南道の西部にある務安郡と長興郡でいくつかの無地刷毛目の古窯址が発見されている。昭和の初め木浦のある務安郡で発見されたので『務安刷毛目』とも呼んでいた。
この無地刷毛目茶碗で知られる務安古窯址(山内里、沙川里、北成里古窯址など)は無地刷毛目だけでなく務安三島や刷毛目なども李朝初期に造っていた。
この手法がのちに鶏龍山に影響を与えたといわれている。どちらも焼きあがりの作品を観るとやや黄色味をおびた釉調で、雲岱里や宝城などの白い粉引とは一線を画している。
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少し粉引のこと
宝城には道村里窯など4か所の粉青沙器古窯址がある。
百済の時代、中国沿岸から海を渡ってきた陶工集団によって都のある錦江流域や木浦・栄山江(ヨンサンガン)流域で百済の陶質土器が誕生したと考えられている。
それはのちの高麗青磁も、さらに日本の須恵器の発祥にもいえることだが、技術、焼成法を口頭ではなく、その技術をもった陶工の移住によって実地で手とり足取り伝えられたもの違いない。 (ここまでの写真8点:黒田草臣)
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倭との交流を前方後円墳が物語る
栄山江流域では咸平孫仏面竹岩里の咸平長鼓山古墳(ハムピョン ちょうこさんこふん・墳丘長:66m)、咸平新徳古墳(51m)、光州明花洞古墳(33m)、光州堯基洞古墳など、倭国と同形式の前方後円墳が16基以上が発見されている。全羅南道海南郡北日面方山里にある海南長鼓峰古墳(76m)は韓国最大の前方後円墳である。
木浦から栄山江(ヨンサンガン)に沿って鶴橋、羅州を経て栄山江の上流にある光州へ向かえば、沈没船から引き揚げられた陶磁器などが展示されていた国立光州博物館も遠くはない。
韓国では前方後円形墳のことを長鼓墳(チャンゴブン)と呼んでいる。長鼓とは古墳の形態が瓢箪の形をしている朝鮮伝統楽器のチャングからだという。光州市の光州月桂洞一号墳には日本の前方後円墳と同様に周濠がある。海南郡には全長76メートル墳丘をもつ海南(ヘナム)長鼓山古墳、広州市の堯基洞(ヨギドン)古墳、近年では2013年に高麗青磁官窯のあった康津で康津永波里古墳(67メートル)や栄山江流域の羅州佳興里新興古墳、2015年には高敞(コチャン)七巌里で2基の前方後円墳(55メートル)が発見されている。2015年、この「高敞七巌里古墳」が韓国の前方後円墳の中で最古のものであることが確認された。
これらの前方後円墳がつくられたのは5世紀後半から6世紀中葉のもの。すべてが任那諸国(倭国が領有していた属領的諸国(4~6世紀頃の任那日本府)で発見されている。その時代は任那をはじめ伽耶であり、倭が統治していたと『日本書紀』の雄略紀や欽明紀にも記されているからだ。
前方後円墳だけでなく倭国独特の円筒埴輪や糸魚川のヒスイ製勾玉が慶尚南道、全羅南道で出土している。(群馬県にある保渡田八幡塚の前方後円墳(190m)には6000個の円筒埴輪に囲まれていた)
倭国の須恵器と同様に古墳周辺の丘陵に築かれた窖窯で陶質土器を焼成しており、彼ら陶工集団が栄山江などを下り、木浦湾から黄海へ出て、対馬海峡、関門海峡を経て瀬戸内にやってきたとも考えられている。
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”陶のきた径”の次回は‥‥⑬「高麗青磁」の秘密」
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