1世紀後半に発生してから600年近くににわたり朝鮮半島南部に存在した「伽耶」(かや)という連合国家は日本といわれる以前の「倭」と深い絆で結ばれていた。今から2000年前のことである。
紀元前一世紀ころ、中国の「灰陶」の技術が朝鮮半島にもたらされた。それはロクロを使って、窯で燻べ焼きをした画期的なことだった。この焼締陶の技術が、逸早く朝鮮半島南部の慶尚南道の伽耶(釜山付近)に伝わっている。倭国とも濃密なつながりがある伽耶地方で把手のついた水注や裾の大きく広がった高い高台の蓋物などが焼かれ始め、中国的な造型を離れて朝鮮独自の炻器「伽耶土器」が登場したのである。
日本最大級の須恵器の産地・阪南の「陶邑古窯址群」、ここ岸和田に生を受けた加守田章二は須恵器を基調に創作活動を開始している。作陶の基調は須恵器であり、土器であった。加守田は韓国釜山で伽耶土器の厳しさをみて驚嘆している。
伽耶土器を誕生させたのは朝鮮半島東南部にある韓国一の大河・洛東江(ナクトカン)流域だ。
滔々と流れる洛東江の下流域には砂鉄の宝庫であり、ここを支配していた伽耶(日本書紀などは任那)という連合国は五世紀頃、大和政権と深い外交があった。
朝鮮半島のほぼ中央、やや東寄りにある太白(タイハク)山脈に源を発する全長525kmという洛東江。駕洛の東に位置するから洛東江といわれ、その川幅も広い下流域に伽耶(諸国)はあった。(近年でも洪水が問題となる洛東江は肥沃な土地で、紀元前の無紋土器ころ、中国江南地方から稲作文化伝わった。また対馬暖流にのって同時期、北九州に稲作がももたらせれている。)
伝説では洛東江流域の金海(キムヘ)などを拠点にした13ヵ国上の小国家群を金首露(キムスロ・伝42年3月3日生)が連盟国・伽耶を建国したとされている。
「三国遺事」には西暦42年、狗邪国の亀旨峰(クジボン・慶尚南道金海市亀山洞)に天から降ってきた紅色の布包みがあり、解くと金の盆に六個の金の卵が入っていた。翌朝、その中から生まれた6人の男子は金姓(金海金氏)を名乗り、最初に殻を破って世に出た子の諱(いみな)を首露(スロ)と名づけた。金首露(キムスロ)の王妃はインド南方からきた許黃玉(ホファンオッ)で10人の子宝に恵まれ、息子2人が許氏を名のって、金海許氏の祖先になったという。10番目の娘が「卑弥呼」となったという説もあるのだが。
青銅器文化より鉄器文化を発展させた金首露は海上貿易を繁栄させ、158年間国を治めたとも、199年3月、157歳で亡くなったともいわれている神話上の王である。
韓国では倭(任那・みまな)と深い交流がある伽耶の存在を小さくとり上げているようだ。
ところが伽耶は何といっても鉄文化を享受していた。慶尚南道全域と慶尚北道、全羅南北道の一部に、金冠伽倻(金海)、大伽耶(高霊)と阿羅伽耶(咸安)ともいう中心勢力が存在していた。
また『三国志』と『後漢書』の記述に馬韓、辰韓、弁韓、狗邪韓という4つの韓があり、狗邪はのちに加羅とか伽耶と呼ばれるようになった。とすれば、大陸から黄海を経て百済の錦江流域や木浦・栄山江流域で百済陶質土器が誕生してのち、伽耶に伝播したと考えられ、木浦・栄山江流域は狗邪の領域であった所だから、伽耶の陶質土器はこの影響を受けたのは間違いないだろう。
伽耶(加羅)国は金官伽耶の故地であり韓国最大の金海金氏発祥の地である。新羅の都・慶州に近い蔚山の友人・金さんと百済の都・扶余へ行った時、「韓国人の5人に一人が金氏。同じ金氏でも、三国時代の百済領域に住んでいる金氏と新羅に住んでいる慶州金氏は今でも仲が悪いです」と真顔でいっていた。
『魏志倭人伝』では狗邪韓国(くやかんこく)と伝えられている国に42年、首露王が金官伽耶国を建てた。倭では狗邪を須那羅(鉄国)と呼んだ。伽耶(加羅)は金首露が生まれた紀元前1世紀後半から大伽耶が滅亡する562年までの600年余り存在した。伽耶は13個ほどの小さい国々で構成され、高句麗・百済・新羅の三国とは区分される独自の歴史を持っていた。
韓国の歴史書『三国遺事』には駕洛(から)、伽耶。『三国史記』には加耶と書かれ、現在の韓国ではこの地方の遺跡に「駕洛」と書かれた石碑がめだつ。
369年に朝鮮半島に渡った倭国は任那府金官加羅「任那加羅」(金海付近)を置いた。『日本書紀』で任那日本府と呼称され、中国『後漢書』では「倭の西北端の国」という狗邪韓国(クヤハングク)は3世紀中ごろに朝鮮半島南部の金海を中心に慶尚南道蔚山から全羅南道木浦付近までを支配していた国としている。
中国の歴史書『三国志』のなかの「魏志倭人伝」に記されている辰韓伝には、
國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
「国には鉄が出て、韓、濊(カイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国の銭を用いるように、鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」(濊は辰韓の北方にあっあった。)
全盛期の伽耶の領域は、東は釜山と慶尚南道梁山(ヤンサン)、密陽(ミリャン)まで、西は全羅北道南原(ナムウォン)、長水(チャンス)と全羅南道谷城(コクソン)、求礼(クレ)、光陽(クァンヤン)、順天(スンチョン)など湖南(ホナム)東部地域まで達したとされている。その後、伽耶諸国は加羅、加耶、駕洛(カラ)、駕羅(カラ)、加良(カリャン)、任那加羅などと呼び名があるが紛らわしい。
中国のような文字が朝鮮半島や倭国にもなかった時代だったからであろうか。朝鮮半島における伽耶に関する資料は約800年後の11世紀後半に編纂された高麗時代の文献『三国遺事』しかない。まして6世紀中頃に滅んだ伽耶の資料はなく、詳しくわからないのは残念なことである。
中国の歴史書『三国志』のなかの「魏志倭人伝」に記されている倭国は女王・卑弥呼の時代とされ、弥生土器の技術を受けた無文土器が金海付近で焼かれており、倭国との交流を物語っている。
首露王陵から鳳凰橋を渡ったところにある鳳凰洞遺跡では、弥生時代に北九州で製作された大型かめ棺が出土している。近隣の池内洞遺跡からは弥生中期の「丹塗磨研土器」が出土した。どちらも倭国で造られ、海を渡って行ったものであろう。
もとは水田稲作の技術と共に朝鮮半島から伝来した無文土器の技法から生まれた弥生土器だったが、弥生時代の中期(紀元前5世紀ころ)から弥生土器にも似た赤い器肌の紅陶円底壷や短頚壷、そして炭化したような黒とのコントラストを活かした彩文円底壷などの軟質土器がに焼かれている。
「伽耶陶質土器」は、窖窯を使って還元炎で焼かれた灰青色の硬質土器で3世紀後半から造られるようになる。有蓋有透孔高杯、台付壷、台付双耳鉢、台付把手双鉢、爐形土器や壺を載せる器台など、世に祭器に使われた高台の高いものには透孔がある。これは鉄製の鋭い刃物で直線に穿った透しか開けられ、その多くは有蓋といわれる蓋が付いている。慶尚南道金海市一帯から古墳群が発掘され、叩き文のある灰青色の「伽耶陶質土器」の壺などが出土しているが、ほかには長頸壷、多口燈盞型土器、台付角杯、杯付扁壺などが焼かれたようだ。のちに述べるが、加守田章二をも唸らせた伽耶土器である。
また倭国にしかないと思われていた巴形銅器や筒形銅器が金海大成洞(テーソンドン)古墳群から出土している。その時代の代表的な貝塚である「金海貝塚」はマガキや蛤の殻が出土している貝塚である。日本統治時代の1907年以後、日本人により数回発掘調査され、およそ3世紀~4.5世紀にかけて古墳が営造されている。
慶尚南道の中部にある咸安(ハマン)郡は、倭と親密な外交がなされていた伽倻地域で、2018年に伽耶諸国の中心となった阿羅伽耶(安羅伽耶=任那)の王城が咸安郡伽倻邑伽倻里(ハムアングン カヤウプ カヤリ)で発見された。伽耶時代の古墳などから明器という副葬品として馬車の車輪の形の土器、家形土器など事物型土器や騎馬人物型の土器が伝わっている。鉄文化を象徴する造形である。
動物では鴨形、そして2019年には鹿形の象形土器が出土されている。そのほとんどが慶尚南道咸安郡の昌原(チャンウォン) 、末伊山(マリサン)などの阿羅伽耶からの出土だと韓国ハンギョレ新聞で報告されている。その咸安郡では昌寧余草里(1995)、苗沙里(1999)、そして于巨里(ウコリ)の丘陵地帯で4~5世紀に稼働していたと思われる大型の長胴式窖窯跡もこの年に発掘された。
伽耶と密接なつながりをもっていた我が国では多くの伽耶土器が出土している。
九州の福岡県をはじめ、中国、四国、近畿、和歌山、岐阜、富山、山形などの遺跡や古墳から高杯・台付把手壺・脚付壺・台付長頸壺などである。
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次回は‥‥陶のきた径⑰「倭国と伽耶」です。
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