阿武川から笹尾の切通峠に向かった萩市川上遠谷の緑豊かな白登山の麓に宇田川抱青の登窯と終の住まいがあった。母屋と登窯「白登山窯」を仕切るのは遠谷川の清流である。
ここは抱青自慢の小さな谷川で、鮎や鮠(ハヤ)が元気よく泳ぎまわり、「ツガニ」と言っていたモクズカニは藻を抱いた岩から顔をのぞかせていた。モンシロ蝶が行き交う春ともなれば土筆やノビル、タンポポが畦道に芽を出し、秋には黄や朱に染め上げられた木々の葉が、赤トンボや糸トンボとともに気持ちよさそうに爽やかな風にのっていた。『抱青』の号のごとく、まさに青山緑水を地でいく自然がいっぱいの里山での作陶だった。(鮎は友釣りし、津蟹は手掴みして獲った。)
私は毎年のように8月のお盆休みを利用して車で窯元へ出張した。その日は東京から、朝早く出て萩まで800㌔ほど走った。(翌々日、唐津までは1000㌔をカウントした。)
夕方までに到着予定であったが、あいにくその日は北広島安佐付近の大渋滞で、抱青との約束に遅れて夜遅くに到着になってしまった。阿武隈川沿いの道で暗闇の中、狸に出合いそのまま車で追いかけっこしたことも。
抱青の白登山のある遠谷村は田圃のミミズが好物の猪が出没し、柿が好物の猿が飛び回っている‥‥緑に囲まれた自然豊かな山里であった。
抱青の最後の愛犬はプロット・ハウンド‥‥つややかな黒毛、いかにも逞しい猟犬である。抱青は『クロ』と名付け、長い耳を両手でたくし上げ、撫でながら可愛がっていた。「つなぐと可哀そうだ」と終始放し飼いしており、遠谷ではいっも抱青と一緒、彼には従順である。
ある日、いつまでも帰って来なかった。心配した抱青は何日も「クロ、クロ!」と喉がかれるほど叫んで近くの山林を探しまわった。数日後、罠に掛かっていたのを発見した。猪などを捕らえる罠だった。抱青は悔しさに泣いた。私も可哀そうでもらい泣きしてしまった。
抱青の白萩釉と地釉
萩の釉薬は地釉(ぢぐすり)という土灰釉、そして酸化炎で焼かれる萩ではいわゆる枇杷釉が主流である。堅木を燃やした灰を何度も水漉して土灰釉を作る。基礎釉でもある土灰釉は櫟などの広葉樹の堅木を燃やした灰と長石でつくられた。が晩年には不純物の少ない柞灰を使うようになった。
とくに白萩に使う土灰は十数回も水簸をした。
「あまりしつこく水漉するので、街(萩)の陶芸家が、気がふれたのではないか‥‥って言っていましたよ。僕は無垢の白さを狙っているので、出来るだけ夾雑物を取り除きたいので‥‥」とふつうは数回のあく抜きだが、抱青は完璧にあく抜きする、彼曰く14回の水簸である。
藁も化学肥料は使わず、無農薬に徹して遠谷川に沿った一番上流にある田圃を手に入れて自ら栽培した。「一番上流でないと無農薬の意味がなくなってしまうから」というのだ。
「五月、稲子から緑化した苗を田植えする時と秋の収穫時には、個展を入れないでください」と頼まれた。
白萩釉には欠かせない稲造りだけは自らしたかったからだろう。こうして抱青は暖かみのある白に拘って天然素材を吟味して制作した。
白萩釉を作るには普通、斑唐津と同じように餅藁を使うが、あえて耐火度の高い稲わら灰を採るために水稲栽培に徹した。刈り取り後、自然乾燥させた藁を黒く燃やす。ほっておけば灰色の灰になってしまい、これでは純白の白萩釉にはならないので神経を遣う。
「萩のうどん食べましょう!」と町にあるうどん屋さんへ行った。壁に掛けてあった赤青黒の三色で描かれた大きな鬼凧を指さし、
「あの凧は見島の鬼楊子といいます。見島では長男が生れると親族などが集まって竹籤(たけひご)と傘紙(和紙)で6畳ほどの大きな凧を作り、翌年の正月に子供の成長を願って揚げるのです。目の下に垂れ下がっているのは涙を表しています。涙の流せるような人情味のある男になれ、との願いがあり、それで僕はこの鬼楊子が好きなんですよ」
抱青デビューの初個展は昭和58年(1983)のこと。
多くのお客様が抱青展の会場にお出でくださり、
「温かみのあるこのような萩焼を待っていた」「抱青さんの萩焼は好きだね」
「世襲の窯の多い萩なのに頑張っているね」と好評だった。
東京で仕事を持つ同級生K氏が、個展の期間中に来場され、「作品をほしい」といい作品を手にとった。
それを見た抱青は、
「駄目だ! ‥‥やきものが解らん者に義理で買ってもらいたくはない。作品を好いてくれる人だけに使うてもらっちょる」
声を荒立て、断固として彼らに売ることを拒んだ。
「毛利の菩提寺は東光寺と大照院、‥‥観光的な東光寺より侘びた大照院が好き」と抱青らしい。
「秋の紅葉も良いけれど、大照院の椎の古木に天然の大藤が五月に花を咲かせます」(ここ大照院には樹齢300年超えるフジが10本ほどあり、ツルの高さは推定30m。萩指定天然記念物になっている。)
1989年1月、お世話になっている各地の陶芸家十数人を誘って韓国の古窯址を訪ねるという名目で鶏龍山などへ行った時のことだった。
成田空港から金浦空港に到着。ここで入国審査の時に彼の姿が見えないので、私は心配してタラップの方へ見に行った。
なんと彼は飛行機から降りたところで一歩も動かずにいた。
近づくとコブシを握り締め、俯いて号泣している。嘆き悲しみ涙淵(るいえん)に沈むとはこのことを言うのだろうか。思わず抱青の肩に手をやり、
「どうしたんだ!」と問うた。
「わが祖国が、この国に悲しいことをした。‥‥ここに立ち降りた瞬間、その思いがこみ上げて動けなくなった」
抱青の気持ちは理解できた。
「そうだね。何度も取り返しのできない惨いことをしたね‥‥」と宥めて賺して、
「‥‥皆が心配して待っているから」と、うつむく彼の肩を抱いて皆が待つ搭乗口までゆっくりと連れて行き、漸く皆と合流することができた。
むっくりとした白萩釉に緋色の土味、黒い見島土がのぞく
当初は焼の甘さで艶が抑えられた白萩で、やや高温のものには照りのある青みがでて、どうしたものかと思いました。さらにせっかくの土味が死んでいるように思い、
「苦労して作った土と釉だから、釉掛けに神経を使おう。白萩と対比する緋色のある土味をみせよう。そうすれば白萩がより生きてくるはずだから」とよびかけた。
萩中興の祖といわれる三輪休和の白萩の網笠水指などに土の緋色と白萩釉の対比にインパクトがあったことを話してみた。
さらにその後の作品で緋色のでた土味を求めるようになると、本来、乳濁している白萩釉が、長石を変えて透明感を感じさせる温みのある白萩が誕生した。白萩釉と土の緋色との対比をもたらした白萩の登場であった。
豪快な茶碗やぐい呑の高台削りに緋色の美しい土肌に潤化した白萩茶碗。
自然を愛した抱青の心のままを強く打ち出した原土から作り上げた土味、そしてむっくりした白萩には、使う人の心を包み込むような魅力が‥‥。
「次は茶碗や徳利などに本物の萩灰被をやってみないか」と問いかけてみた。 ‥‥次回③へ
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