2024年04月06日

15 川喜田半泥子 務安で粉青沙器を焼く

川喜田半泥子「いはうつ波」

「陶のきた径」の本題からはずれてしまうが、倭国に須恵器をもたらした百済の務安地方…ここに川喜田半泥子が窯を持って作陶したことが私には偶然だけではないような気がしてこの項で寄り道をしてみたい。むろんこの近郊には半泥子が惚れた上質なカオリン質の高陵土(こうりょうど)があった。

昭和9年(1934)のことである。5月末から6月にかけて川喜田半泥子は唐津から朝鮮半島へ渡り、忠清南道の鶏龍山の古窯址を発掘調査している。このころ朝鮮半島の多くの窯が轆轤ではなく、キムチを漬ける甕などを甕匠が叩き成型した甕を焼く長胴式窖窯(蛇窯)が多く見られたものの半泥子には興味がなかった。そのような大甕を焼く大窯ではなく、李朝初期に粉青沙器や白瓷を作っていた時と同じように轆轤師(沙器匠)の使う登窯を探していた。

粉青沙器(粉粧灰青沙器)

現地を案内してくれた朝鮮総督府の田中明が金点出という陶工を伴い、「金君が昔ながらの手法で白磁の飯茶碗を焼いていた荷苗里(ハビヨリ)窯が、”儲からない”という理由で前年の7月ころに廃窯にした。その後、金君は荷苗里から引っ越し、木浦の山亭里で骨董屋に頼まれて高麗三島の偽物?を製作している」と半泥子は金を紹介された。

新安郡の島々を望む全羅南道務安郡雲南面の突き出た半島にあるこの窯は庶民の日常使いの碗を焼く数少ない白磁(堅手)窯で、その金がこの窯で焼いた茶碗を見せられ、即座に半泥子はこの窯に白羽の矢をたてた。

鶏龍山 鶴峰里山麓に古窯址がある

半泥子はその3年前に小山冨士夫が設計し築いた登窯には不満があったこともあり、「素人の設計で素人が築いてもキット焼ける」と強い信念のもと、昭和9年8月、実見した鶏龍山古窯址からヒントを得て縦サマで一間の2倍の奥行きがある大きな胴木の間をもつ、三間からなる独特の登窯を自ら設計して築いた。

心配していたが、この窯をみた加藤唐九郎が「ア、コレナラ焼けます」と折り紙がついてホッとした窯だ。さらに翌年、この窯を築き直して四間として半泥子創作の地「千歳山」での本格的な作陶始動となった。

しぶや黒田陶苑「からひね會」展
2006年の図録より

昭和12年(1937)5月27日28日の両日、59歳の半泥子は岡山市禁酒会館で「泥佛堂無茶法師 伊部窯金重陶陽 作陶展覧會」という二人展を開催した。陶陽作の「陶製茶釜」求めてのち、いよいよ半泥子は「朝鮮への窯行脚に出発した」。

 以下は半泥子「續・泥佛堂日録(其四)」の副題を持つ5月28日の釜山入りから6月18日に釜山を去る時までの22日間の朝鮮半島滞在の記録からの引用とともにお伝えしたい。

この27日の夜、下関に到着。すぐに関釜(かんふ)鉄道連絡船「興安丸」に乗り、10時半に就寝。翌28日早朝5時半にボーイに起こされ、6時前に釜山港に着いた。7時半の列車「のぞみ」で釜山を出発、現在なら韓国高速鉄道KTXで1時間半で大田に到着するが、この頃は6時間かかった。半泥子は広々とした洛東江の流れに沿って景色の長閑さに魅入りながら12時28分に太田に到着、ここで湖南線に乗り換える。12時50分発の木浦行に乗り込み鶏龍山をはるかに望みながら5時50分目的地の鶴橋駅にようやく到着した。ここで世話になる山田萬吉郎(当時36歳)が迎えてくれた。鶴橋から車(オースチン)で咸平(ハムピョン)村に大農場を営んでいた山田萬吉郎邸へ、半泥子はここの向かいにある別宅へ通された。

翌日は山田萬吉郎のコレクションを鑑賞した。白壁の土蔵の文庫には所狭しと蒐集品が溢れ、半泥子は鉄砂や染付の絵が面白く、数えきれないほどのものを拝見し、スケッチブック一冊を描きつくしてしまった。

毎日、咸平村から荷苗里窯へ約25キロの道を通うつもりであったが、咸平から望雲間は約10キロの大波小波のガタガタ道、「道の悪さにどうにもたまらん」と閉口し、5月30日に咸平村から西へ3キロほどの奈里に移った。

『やきもの趣味』第三卷9号(学芸書院)
昭和12年

奈里には山田家の農場(咸平村奈里300余町歩の水田)があり、半泥子はの山田農場の宿直室に2週間滞在した。ここにはシメジの笠のような屋根の物置小屋が三軒ありその内の一軒で電気や電話がないランプ生活をしたが、半泥子曰く「極楽浄土を思わせる」一棟で13日間滞在した。荷苗里窯からの道も、「まるで舗装されているようなイイ道」で、奈里から荷苗里窯へ車で3、40分かけて毎日通った。

半泥子は登窯の5間あるうち、何とか残っている3間を活かす計画を立て、自ら指揮して築きなおすことにした。

登窯の3袋まで鄭という「朝鮮の爺さん」に直させ、請求された4円を支払った。爺さんは、男4人を使ってほぼ1日で全長6.7m、天井高1m。急勾配のアーチ形の窯を築いた。

6月1日の午前中に茶碗を5.60個ひき、乾ききらないうちにと午後に高台を削った。急いだのは「早く三ノ間までの分を作って、一日も早く窯に入れたい」と思ったからである。

現地の砂や小石の混じった荒土を使って轆轤成形し、6月6日、金点出が素焼だけ終了したと連絡を受けた。

燃料に使う薪は望雲半島だけでは足りなかったので近くの島からも取り寄せた。

『やきもの趣味』

上釉は泥佛堂から持参した土灰釉、天目釉なども使ったが、大部分は胴の中心部から白化粧を刷毛で中央から右へ力強く引いた刷毛目に現地の石灰釉を掛けた。地元の女性が茶碗に目を付け5,6個重ねて300個の茶碗を天井が低いため寝そべって窯詰した。

全体の焼成時間は14時間から17時間。急勾配で背が低い窯だから焼成時間は短い。夕方4時半に火入れ、あぶりは金点出など地元の陶工に任せて6時に宿舎に引き揚げ、夜中に起き出して窯の見える丘に登った。

『やきもの趣味』(二の間、金点出君の差木)

窯は轟々と燃えていた。半泥子は「まるで神代さながら」と呟いた。翌朝、二の間まで焚き終えて、最期の一袋は地元の陶工に任せた。

昭和12年 荷苗里窯 刷毛目茶碗
川喜田半泥子(朝日新聞社1992年10月)

翌日に窯出したが、背丈が1mの登窯ゆえ、火が走り固く焼き締まって照りが出てしまった。上釉は艶が出過ぎてテカテカになったものが多く、半泥子好みの“ワビサビ”を感じることができない焼き上がりだった。「窯出物を概評すると、いずれの点から見ても気に入ったものは一ツも無かった」というが、上記のカラー撮影された刷毛目茶碗は良い焼けである。

昭和12年 荷苗里窯 刷毛目茶盌
『やきもの趣味』

6月11日に奈里を離れて咸平の山田邸に戻り、14日に咸平を立って翌15日の朝、京城に着く。

6月11日に咸平に戻る。14日に咸平を立って翌15日朝、京城に着く。この日の 午後、朝鮮總督府の田中明に会っている。

6月16日夜、「朝鮮に於ける焼物の神さま」といわれる淺川伯教(のりたか)に会う。半泥子が 荷苗里で実際に制作したことを心から淺川が喜んだことが、「やきもの趣味」3-9に載っている。

‥‥6月16日晴。夕刻、風呂に入ってから高楠先生のお招きで清香園でご馳走になった。高楠博士のご厚意で淺川伯教が先約を断って同席してくれて半泥子は嬉しかった。

「内地から今までに、澤山の方が焼くつもりで来ますが、一人だって自分で其處迄やつ た人はありませんよ。みんなステッキの先でチョイトついて見るやうな事をしてつ て仕郷ひます。私も或る窯でひと月辛抱をしましたが、悪臭と蝿にはがまんがなりかねましてネ。それでもアナタほんとうによくもよくもやりましたネー。イゝことしてくれましたネー」と日頃の掟を破って盃を重ねながら淺川は半泥子に伝えている。

韓国国立民俗博物館
韓国国立民俗博物館 (1960年、淺川伯教・巧兄弟らが主なり景福宮に設立された韓国民俗館が国によって継承運営されている)(Wikipedia)

6月17日の夜に京城を立ち、18日午前に釜山に到着。そして同日夕刻、下関で下船。 翌6月19日の朝大阪に着き、その夕刻に兵庫県武庫郡精道村(現 芦屋市)の田辺加多丸邸で備前の多田利吉、桂又三郎、金重陶陽、京都の美術史家・蜷川第一(にながわ ていいち)、大阪の建築家・笹川愼一、竹内三一、大東京火災創業者の反町茂作、医学博士で「信楽・伊賀」などの著書がある大村正夫らが集まり総勢17名による半泥子帰国歓迎会が開かれた。6月20日午後8時半、泥佛堂に戻って長い旅は終了した。

すべてが終わり、「朝鮮の窯焚は我が人生の最高の思い出であり、心の滋養であった」と書き残しており、務安の古窯址にみられる刷毛目に刻文などを施した茶碗 銘「昔なじみ」などを焼いて持ち帰った。

世話役の山田萬吉郎は「三島刷毛目」(寶雲社)など朝鮮陶器の研究を中心とした多くの著作があり、「務安の窯跡の研究は、日本植民地時代の日本人研究者、山田萬吉郎の記録が大きな手掛かりです」と務安粉青沙器協会会長の金汶〓(キムムンホ)さん(52)がいう。

半泥子の帰国後、咸平で採掘したカオリン質の土を送った。鉄分もほとんどない粘りの少ない土で、耐火度が1690度という高温だったところから、「馬鹿大将土」「新馬鹿大将土」と山田は名付けて半泥子に送った。

半泥子 井戸手茶碗「卯の花」(しぶや黒田陶苑HP)
『千歳山半泥子六十六名盌鑒』(1943)所載

昭和13年(1938)5月27日、荷苗里窯に似せた三間の小さな登窯を千歳山に築窯した。なんと三日間で築きあげたので「三日窯」と名付た。

山田から送られた「馬鹿大将土」「新馬鹿大将土」を主体に制作した。単味では挽きにくい土だったことから持山である千歳観音山の鉄分のある土を混ぜて井戸茶碗を作った。「自在自楽」の精神で作る半泥子の井戸茶碗は嫌味を感じさせない小気味よさがある。

1943年に刊行された「千歳山半泥子六六名碗鑑」に井戸手茶碗の傑作が登載されている。

‥‥次回は、陶のきた径⑯ 伽耶土器

拙作 栗材削椀


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