2024年05月02日

17 倭国と伽耶

伽耶 台付角坏 晋州国立博物館蔵

伽耶は4世紀末頃から仏教や漢字、天文学などを倭に伝えた友好国として知られる。

百済とともに倭と友好関係が保たれていたのだ。

391年、倭は朝鮮半島へ侵略して高句麗と戦った「倭・高句麗戦争」というのが『日本書紀』、『三国史記』などに記録されている。

そして『好太王碑』には、

 『391年、倭は百済と新羅を臣民とした。500年には百済からの要請で倭は新羅を侵略すると、新羅はたまらず高句麗に救援要請をした。これを受けた高句麗広開土王は、5万人の歩兵と騎兵を新羅に派遣した。機動力のある騎馬軍団に倭兵は退き、任那・加羅へと後退した。(好太王碑文)』

好太王碑文部分(Wikipedia)

高句麗軍が倭兵を追撃するすきを狙って倭国傘下の安羅伽耶軍が新羅の首都を陥落させた。これによって新羅は402年、17代国王・奈勿尼師今(なもつ にしきん)の第三王子・未斯欣(みしきん、ミサフン)を人質して倭に送っている。

2011年発見された中国・南朝梁(502~ 557)の梁職貢図(「職貢」=「中央政府へのみつぎもの」)には新羅が倭の朝貢国であったと記されている。

高句麗軍の南下で洛東江(ナクトンガン)下流地域が主戦場になり、洛東江の水路と海を利用して発展した伽耶が大きな打撃を受けた。これも広開土王碑文によると、

「四〇四年、倭軍は(百済軍と)帯方郡国境を超えて侵攻してきた。高句麗の好太王は平壌から兵を率いて進み、打ち破った」と好太王の功績を讃えている。

好太王碑文
好太王碑文(Wikipedia)

524年、新羅は法興王の時、伽耶地方を侵攻した。金官伽耶国は倭国へ救援要請を行った。倭国のヤマト王権は将軍毛野臣(けなのおみ)に6万の兵をつけて任那に派遣する。ところが、九州最大の豪族・筑紫国造の磐井は代々新羅と友好関係にあったこともあり、ヤマト王権に敵対して「磐井の乱(いわいのらん)」を起こした。

日本書紀には、

「朝鮮半島の南部にある任那の一部が新羅に奪われた。このため継体二一 年(五二七)、継体天皇は近江毛野臣に新羅攻撃を命じた。それを受けて毛野臣六万の兵を率いて奪還に向かった。この頃、筑紫国造磐井は朝廷に反逆しようと機会を狙っていた。それを知った新羅は磐井にワイロを送り、毛野臣軍を防ぐように勧めた。磐井は火国(肥前・肥後)、豊国(福岡東部・大分北部)に勢力を伸ばし、朝廷の命令に従わなかった。対外的には、海路を断って高麗、百済、新羅、任那からの毎年の朝貢船を自国に誘導し、対内的には毛野臣の軍勢を遮って無礼な言葉で、『今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は同じ伴部として肩を寄せ、肘をすり合わせて同じ釜の飯を食った仲ではないか。どうしてにわかに使者となったお前に従えるか』 と言って戦い、命令を受け入れなかった。磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は前進できずに滞留した。‥‥」とヤマト王権側の記述がある。

528年冬、筑後川を挟んで対峙し、528年11月、最終決戦、ようやくヤマト王権の大将軍・物部麁鹿火(あらかび)が鎮圧した。こうして倭国軍は伽耶の安羅への到着が五年後となった。

福岡県八女市吉田にある「岩戸山古墳」は多数の石人石馬が多数並んでいる前方後円墳(全長135メートル)で九州最大の古墳である。国造磐井の墳墓と推定されている。石人のほか多くの埴輪や陶質土器が出土している墳墓である。

『三国史記』によると伽耶の中心的国家であった金官伽耶国は532年に滅亡した。洛東江の金海付近を治めていた金官伽耶が新羅に降伏した。任那加羅諸国は百済に救援を求めたが新羅は554に阿羅伽耶、562年には大伽耶(高霊)を滅ぼし、伽耶諸国は滅亡した。

友好国だった倭に鉄文化を伝えて親しい交流があった伽耶は、いち早く三国の争いの狭間から抜け出したのだろう。伽耶の陶質土器や製鉄の技術者とともに戦乱を逃れて倭人任那とともに日本に渡ってきた。

562年、伽耶の大半が新羅によって占拠され、任那は朝鮮半島から撤退を余儀なくされたのであろう。

その百年後の白村江の戦い(663)で敗れた倭国は、天智天皇が亡くなると跡目争う皇位継承をめぐる壬申の乱(672年)が起こる。古代日本最大の内乱に勝利した大海人皇子は天武天皇となり国家の中心となった。都を飛鳥に戻して上級役人を皇族で固めた皇親政治を行い、唐の政治に倣った律令国家を目指した。

伽耶 台付角坏 晋州国立博物館蔵
(1992年 古美術 緑青№7より)

天武天皇の意を受けた持統天皇(645~703)は694年、藤原宮に遷都、701年、大宝律令を発令、大王から天皇へ、そして国名を「倭」「倭国」から「日本」と改められ、孫の文武天皇 (在位 697~707)の時、白村江の戦いで冷え込んでいた唐との国交を32年ぶりに回復させて、遣唐使によって唐にも宣言された。

朝鮮半島では百済、そして伽耶諸国から新羅へとひろがりをみせた陶質土器は、新しい文化・仏教とともに栄えていった。陶工たちは粘りのある胎土を探しだし、さらに細かな粒子の粘土にして、高杯などの食器の多くは轆轤を使って端整な薄造りをして、甕などの大きなものは紐状にした粘土を積み上げて叩いて造形している。

土器時代のように炎を逃がさないように斜面に溝を掘って窖窯を築いた。焔の圧を逃がさないことで、1100度以上の高火度で焼くことができるようになった。攻め焚きは葉や小枝を投げ入れて焚口を閉じた燻し焼にする炭化還元焼成した。鳥形、車輪付双口花器などが古墳に副葬された例があり,祭祀用の独特な器形が造られた。伽耶時代の古墳などから出土したもののほか一見、ジョッキのような把手付杯、片耳付壷、高台に透かしのある有蓋(蓋付)高杯などの薄手の食器が焼かれていた。この伽耶の陶質土器は窖窯の中で火力の強いところには燃料による自然釉がかかり、灰青色に炭化した焼きは、それまでの土器とはくらべものにならないほど丈夫なやきものを作り上げたのである。


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