加守田章二のこと
昭和8年(1933)4月16日、「大阪でも一番ガラの悪い土地柄。秋祭りにダンジリ祭という喧嘩祭がある」と加守田章二自らがいう岸和田の生まれである。ここは日本最大の須恵器古窯址「陶邑窯」があったところだ。
昭和27年(1952)、京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学。朝4時に家をでて、先輩たちの登校前に教室に入って、使い屑の陶土を掻き集めて練習した。
岸和田から京都の大学まで2時間かけて通うのは大変だった。そこで大学2年から下宿を決意し、同級生と東山区泉湧寺山内町の観音寺に下宿した。
ここは京都市電が通る東大路通りの泉涌寺通り交差点から東を見ると東山の斜面が続いていた。大正2年(1913)に草深い竹藪が拡がったここ“蛇ヶ谷”に西仁太松(にしにたまつ)が荒地を切り拓いて築窯したことからはじまる。加守田が越してきたこの年、40周年祭が行われた。
西仁太松に続いて福田松斎(初代)、吉川吉郎、若林与三松らが築いた登窯の煙突が立ち並び、著名な陶芸家として小山冨士夫、石黒宗麿、富本憲吉などが作陶し、最盛期には登窯15基が稼働した京都最大の窯業地となった。1970年頃から、私は細い獣道のような蛇ヶ谷の坂道を上って走泥社同人として活躍していた熊倉順吉や山田光らの陶房へ通ったことを思い出す。
大学で「お前たちはデザイナーになるんだ!」と富本憲吉に言われた加守田にとって、「富本先生は唯一の尊敬する人」となった。それゆえ富本の図案講義には欠かさず熱心に出席したのだが、それ以外の講義に関心を抱かず、もっぱら京都国立博物館などに通って目を養った。そこには心を和ませてくれる須恵器があったからだ。
昭和34年(1959)、結婚を機に益子で独立。夫婦で実家の近くの和泉市光明池へ行った。そこは灌漑用として整備された溜池。この付近は泉北丘陵窯跡群、いわゆる陶邑古窯址があるところ。ここで須恵器の陶片をみて改めて感動した加守田は強烈な魅力を感じると同時に、時を超越して現代にもその創作性が迫ってくることを感じ取ったという。
昭和37年、須恵器に倣った作品を焼くために自宅の敷地にある斜面を利用して半地下式窖窯を築窯した。翌年、初窯を焚いたが失敗してしまった。極端な温度上昇のため素地が割れてしまったのだ。
この年の6月、恩師・富本憲吉逝去の知らせで、京都山科の富本邸での密葬に参列し、その帰途、名古屋で乗り換えて常滑市郊外に窯を構える江崎一生を訪ねた。江崎は知る人ぞ知る窖窯築窯の名手でもあるからだ。
加守田は窖窯失敗の経緯を伝えた。江崎は窖窯の設計図を見せ、的確な窖窯築窯のアドバイスをしてくれた。早速、自宅に戻った加守田は江崎の助言をもとに窖窯の焚口のロストルの構造や煙道の改良をした。こうして窖窯焼成を成功させることができた。これ以後、3ヶ月に1回の割合で窖窯を焚き、完全な還元焼成による須恵器風や猿投風の灰釉がかかったものを主力にした。もとより炭化焼成に努めたのであろう。その後、須恵器を軸にした加守田の独創性を加えた作品を次々に発表し、この年の9月、日本伝統工芸展にも入選し、賞候補にもなった。
昭和40年(1965)、加守田32歳の時、その後の壮大な創作活動を可能にした大きな転機が訪れた。東京福生で作陶する岡野法世が「イッテコイ」と呼ばれる倒炎式角窯を伝授してくれたのだ。
益子に登窯以外の窯が導入されたのは加守田の倒炎式角窯が初めてのこと。倒炎式角窯は一週間ほどで平地に築けるうえに、焼成の時間や手間も掛からず、重油ゆえ燃料も安く、窯焚の頻度も多くできことで、窖窯で苦労させられた加守田にとって遠野での旺盛な創作活動になくてはならない重宝な窯となった。
ところが、遠野の粗い土は収縮率が大きく、切れ易かった。それまで轆轤成形に頼ってきたが、この土を手捻りすることで造形が自由に創れ、変化に富むようになった。「手捻りは面白い。確実に中の空間っていうものが出来ていく」といいい、「焼物の生命は内側の空間にある」と遠野という大自然の中に身をおきながら新たな創意創作がはじまった。
「創作こそ陶芸の真のありかただ」、「陶工ではなくデザイナーになれ!」という師匠の富本憲吉の教えを守り、造形に意匠に次々にオリジナリティーを展開した。展示会の度ごとに独自の瑞々しい作風を発表し、瞬時も立ち止まらない立ち止まらない新鮮な創作をもって、昭和の陶芸界を駆け抜けていく。
加守田は、いわゆるオブジェとしての存在意味しかもたないものは作らない。
「オブジェを作らないのは自分の性格だ」といい、
「手法を変えるのは気持ちの新鮮さがほしいから。つまり惰性が嫌だからだ」という。さらに
「僕のやきものを買う人は使う目的で買いますから、器の中には常に釉を掛ける」配慮もなされた。
加守田章二は昭和53年(1978)に韓国に渡った。
慶尚南道釜山にある国立釜山大学博物館釜山大学博物館 (pusan.ac.kr)を訪ねた。かつては図書館に使われていた煉瓦造りの独特の風合いを醸しだしている建物だった。入館し陳列されている把手のついた水注や裾の大きく広がった高い高台の有蓋高杯などの伽耶土器をみて加守田はただただ感動した。
「新羅や百済の土器と違い、どうして伽耶土器は、あんなに厳しいのだろう」と,
自らの創作と共通する精神性を感じたという。
当時、任那とともに小国の集まりだった伽耶は新羅と百済に挟まれ、絶えず存亡の危機にあり、その緊迫感ただよう伽耶人の強靭な精神が厳しい伽耶土器を生んだのだ、と痛感させられたのだと思う。
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