2024年05月30日

19 新羅

石窟庵-阿閦如来座像

19 黄金の國・新羅

朝鮮半島初の統一国家といえる新羅のことである。

新羅は初代の朴赫居世(かくきょせい )から「朴・昔(ソク)・金」の三氏が交互に継承し、紀元前57年、朝鮮半島南東部に斯盧 (しろ、サロ) という小さな国から発祥したという。

576年頃の朝鮮半島

『魏志東夷伝』によれば、四世紀の中ごろにあたる356年、現在の慶尚南道の洛東江流域を中心とした辰韓12国の斯盧国が主となって部族連合国家を成立させ、503年、奈勿尼師今(なもつ にしきん)が17代目の王位につくと国号を「斯盧」から新羅(しらぎ=シンラ)と称し、52代まで金氏が独占継承し、現在の慶州(キョンジュ)を都・金城(クムソン)として建国した。

6世紀後半には、伽耶地方、漢江下流域を支配下に入れ、伽耶の滅亡以後、659年、百済が新羅に攻め入って来たので、唐の高宗に援軍を新羅は要請した。

時の新羅の武烈王は即位前から唐と密接な外交関係を築いていたので、唐は13万の兵を派遣した。これによって660年に百済の都・扶余は唐・新羅連合軍によって陥落、60万の人々とともに全滅させ、668年に唐軍は高句麗の首都平壌を陥落させ、20万の捕虜を連れ帰ったという。

その後、唐は朝鮮半島全域を支配下に置くことを目論んでいた。

唐はこの頃、チベットにあった統一国家の吐蕃(とばん)の勢力に対抗するするため朝鮮半島への侵略を諦めた。こうして唐軍が撤退した676年、新羅は朝鮮半島を統一に成功した。領土は朝鮮半島中部以南を占めた。新羅は唐を宗主国として従属し、唐制にならった貴族国家として栄えていった。

大陸からの仏教文化や律令制を移入して中央主権統治を行い、都としていた慶州に壮大な仏国寺(プルグクサ)が建立されるなど新羅の最盛期を迎えたのは八世紀半ばで、理想的な「仏の国」の確立を目指した。

もっとも繁栄したのは景徳王(在位:742年~765年)の時代で、唐の制度文化を取り入れ、仏国寺や石仏寺などの仏教寺院が建立され、伽倻山国立公園の入口にある清涼寺石造釈迦如來座像、慶州市の拝里三尊石仏石仏、断崖絶壁に刻まれた南山三陵谷磨崖石仏や南山七仏庵磨崖仏などに硬い花崗岩が使われた新羅仏教の彫刻芸術文化を観ることが出来る。

古代朝鮮の三国時代から抜け出した668年から900年までを統一新羅時代…

935年、高麗に降伏して滅亡するまでを後三国時代(後三国時代、新羅で叛乱を起こした金弓裔(きゅうえい)が901年に高句麗の復興を唱えて、国号を高句麗と定めた。

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1909年、発見された当時の石窟庵(Wikipedia)

1962年、大韓民国国宝に指定された石窟庵(ソックラム)と釈迦塔や仏像など多くが国宝に指定されている仏国寺(プルグクサ)が1995年にユネスコの世界遺産に登録された。多宝塔など多くの石造建造物が残っている仏国寺は751年に建立された慶州最大の寺院。豊臣秀吉の文禄慶長の役、韓国では壬辰・丁酉の倭乱により木造部分は焼き払われたが、石造建築として有名で、とにかく広い。

はじめて石窟庵へ行ったのは1978年のことである。「石窟庵の釈迦如来像に朝日が差す姿が美しいから」と友人に誘われて、まだ日が明ける前、仏国寺から標高745メートルの吐含山(トハムサン)の麓を4キロ(一時間ほど)、岩の転がる道を歩いた。東に向いているドーム型に造られた人工石窟の中に高さ3.5メートルの白色の花崗岩でできた『如来坐像本尊仏』が鎮座していた。優しい笑みを浮かべたこの本尊仏は新羅時代の仏教美術の最高傑作だともいわれている。もと石窟庵は石仏社・石仏寺と呼ばれていたようだ。

仏教を排斥した李朝期(1392年)から500年の間放置されていたが、日本統治下に再発見され、3度、大規模に復興して、「石窟庵」と呼ばれるようになったという。

二度目には旅行社のツアーを新卒した時には仏国寺からシャトルバスに乗って行けるようになっていた。石窟の入り口はガラス板で覆われ内部に入れないのでガラス越しで見学するようになったようだ。

石窟庵 阿閦如来座像(Wikipedia)

度重なる内乱や飢饉で国力を弱体化させた新羅は935年、後高麗の王建(おうけん、ワン・ゴン)に滅ぼされ、慶州(キョンジュ)と改称するまで、新羅は金城(クムソン)から都を移すことはなかった。

“黄金の国”としで知られる新羅を支配した王族の陵墓だろうか、慶州には古墳が300あるという。街の真ん中には、よく手入れされた芝生に覆われた円墳が並んでいる。高塚墳が盛行する四世紀後半に造られたといわれ、12万5400坪の敷地にある「大陵苑」には、大小23基の古墳が点在する。北側にも慶州路東里古墳群と慶州路西里古墳群などが古墳公園として整備されている。

とくに郊外の掛陵里にある掛陵(クェルン・直径23m)は慶州にあるどの古墳よりも美しい姿をしている。松林に囲まれた神道という芝生の道の両脇には笑う獅子、西域イランから新羅を訪れたやってきた文官、武官。古墳を囲む十二支神像を従えた掛陵は新羅第38代の元聖(ウォンソン)王の陵墓だと伝えられている。

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新羅 金冠:慶州天馬塚出土
6世紀 慶州國立博物館所蔵
高32.5㎝ 重量1,262.6g

そうした新羅の王陵から眩いばかりの金冠などの装身具・武器・馬具などが大量に出土し、ローマ系のガラスなども出土している。ローマの文化を受け入れていたのだろうか。

新羅土器は3世紀後半ごろ、洛東江流域の東萊(トンネ)、金海、熊川などで発達した伽耶土器を母体にして発生してきた。慶州を中心とした「新羅土器」は、初期の段階ですでに高杯,短頸円底壺,甕,盌(わん)などの器種を轆轤によって成形し、窖窯を利用して1100℃以上の高温で還元焰焼成した灰青色や炭化焼成された黝黒(ようこく)色系の硬陶である。

「新羅土器」の伝統を蘇らせたばかりの窯が慶州にあるというので日本から十数人の陶芸家とともに1978年に慶州市八洞の民俗工芸村の一角にある新羅窯へ行った。陶工が床に腰掛け、床と同じ高さにある地轆轤を蹴って回していた。聞けば大きいものを造る時にはこのまま床に上がって制作するのだという。なるほど理に適っているように思えた。その後、松割木で焚く長大な登窯を拝見した。この窯の祖は、隔壁のない隧道式といわれていた「蛇窯」で、あたかも蛇が窯の勾配に沿ってまっすぐ伸びたような、長胴式窖窯のこと。

出口に向かうと売店があり、新羅土器のレプリカが大量に並んでいた。タダでは通れない?仕組みになっていた。再度訪れたのは朝日旅行社「韓国古窯址巡り」を引率した時には、地轆轤は前回ほど深く掘られておらず、日本でよく見る蹴り轆轤スタイルになっていた。売店には焼締の新羅土器だけでなく高麗青磁や粉青沙器の写しも並べられていた。

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【いんべのうつわ 金重 巌展】

Exhibition of KANESHIGE Iwao 

開催期間:2024年5月31日(金) ~ 2024年6月4日(火)

Exhibition : May 31 to June 4, 2024