「大韓民国指定国宝」(だいかんみんこくしていこくほう)という韓国の文化遺産保護制度がある。1962年12月20日に崇礼門(すうれいもん)が国宝第一号となり‥‥同時に116点の文化財が国宝に指定された。その後追加が行われて、現在は354点が国宝に指定されている。
陶磁器では高麗青磁が最も多く、李朝の白瓷、青華(染付・辰砂・鉄絵)、粉青沙器など複数みられる。ところが、無釉焼締の陶質土器では、5~6世紀につくられた「土偶装飾長頸壷」と6世紀初頭の「新羅騎馬人物像」(国立中央博物館蔵)だけである。
現在、国立慶州博物館に所蔵されている指定国宝(195号)は慶州市鶏林路の味鄒王陵古墳から出土した「土偶装飾長頸壷」とか「新羅装飾長頸壺」といわれる高さ34センチの新羅土器である。
壺の肩には魔除けとか子孫繁栄を意味しているのだろうか蛇や蛙、新羅琴の筝者(そうしゃ)や男女の営みなど小さな土偶が付けられている。
なんと今、窯から出てきたばかりの乾燥した質感である。むろん古墳からの出土なので、風雨に晒されることなく、器肌は変化しなかったのだろう。まんべんなく灰青色がかった新羅土器で、人を寄せつけるような優しさはない。自然釉とか窯変というような数寄者の好む変化や瑞々しいうるおい、たおやかさは全く感じられない。
古代王権制の新羅、その王陵古墳から出土したことからも新羅王宮からの指示で刻線や印花、そして土偶の細部装飾を活かすために自然釉が掛からぬように慎重に焼締されたのだろう。
民族性の違いなのであろうか。たとえば東博に所蔵されている須恵器の子持装飾脚付壺には肩に5つの小壺を配され、その間に馬、犬、鹿、犬、猪など5頭の動物の土偶が装飾されている。ここには自然釉がどっぷり降り掛かり、素地にも自然釉が染み込んで艶やかだ。これは兵庫県たつの市の山王山古墳出土からの出土品(古墳時代後期にあたる六世紀ころの作)、須恵器ながら焼成の変化に富んでいて観ていても飽きない重厚味が感じられる。
新羅の土偶装飾長頸壺(5世紀 / 高34㎝)は慶州味鄒王陵C地区30号墓から出土したといわれ、慶州國立博物館の詳細情報には、「土偶装饰罐子」とある。
「長頚壷に多様な形状の土偶を付着して最大の装飾効果を出した新羅の最も代表的な土偶装飾土器である。壷の首と肩の部分には蛙の後足を噛んでいる蛇と、鴨形土偶を三ヶ所に一定の間隔で配置し、その合間に性器が強調された男性、新羅琴を弾いている人、性行為の姿勢の男女像、魚・鳥・亀などの土偶を飾った。このような装飾土偶は多産と豊饒を祈る造形物として、新羅人の生活像だけでなく自然と調和した当時の人々の精神世界を示している。」と慶州国立博物館では説明している。
多くの時間が掛かったと思われる手の込んだ指定国宝となった土偶装飾のついた長頸壷が、どこで焼かれたかわからなかったが、20世紀末、慶州の競馬場を造る計画予定地がその窯址だとわかった。
韓国地図を見ると慶州の北西部にあたる慶州国立公園の小金剛地区と吐含山地区の中間に徳洞湖と普門湖がある。その二つの湖に挟まれた普門観光團地の慶州蓀谷洞(ソンゴットン)川北面勿川里一帯で多くの新羅・統一新羅時代の遺物が発見され、1996年~2000年にかけて国立慶州文化財研究所による発掘調査が行われた。
発掘調査により、47基という大量の古窯址のほか、瓦窯1基、工房址4ヶ所、木炭窯17基。
さらに礎石建物跡、高床式建物跡53棟などの遺構が発見され、指定国宝の装飾長頚壺はこの蓀谷洞古窯址で焼かれたことが明らかになった。
陶質土器の影響から我が国でも古墳時代後期に「装飾付須恵器」などといわれる肩に小さな土偶が装飾されているものが焼かれ、東京国立博物館、岡山県立博物館などに所蔵されている。
統一新羅時代は全面に細かな印花などの押型文が施された蓋付壺などが多く造られた。高杯も瓶も共蓋が付いている。
日本で発見された朝鮮半島の陶質土器は5世紀には加耶土器が主流であったのに対し、新羅が半島中南部統一した6世紀には新羅土器が大半となり、これらの新羅土器の分布は日本各地に及んでいる。
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