一万年以上続いた土器時代
自然界のものだけで火を熾すことは難しい。
太古の人たちはどうして火を熾すことを覚えたのだろうか。
火山や雷から火を知っても、いつかは燃え尽きてしまう。
北京原人の遺跡から約50万年前の焚火のあとが残っていたといわれ、約40万年前に出現したネアンデルタール人の遺跡では30万年前には煮炊きしていたとも。日本では長崎県佐世保の洞窟から旧石器時代(約18000~16000年前)の焚火の痕が見つかっている。
日本の縄文時代、木と木をこすり合わせて摩擦して発火させた。よく知られる錐(きり)揉み方法だ。乾いた硬い板に木の棒を垂直に回転させて火を熾す。
その後、今の茨城県あたる常陸の山方町で産する火打石といわれる鉱石(瑪瑙など)と硬い石を打ち合わせて火花を起こすことが江戸を中心に普及した。マッチの国産化は明治になってからだから、雨の日など火を熾すだけでもその技術が必要だったと思う。
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縄文土器や弥生土器は、まだ炎の圧を逃がさず1000度以上の高温を保つことのできる窯というものが無かった時代だ。地面に直径2.3メートルの円を描き、数10センチの深さに掘り込み、そこに土を捏ねて制作した器を積み上げてから枯れ葉や小枝などで覆って火を付けた。こうした焚火のような「野焼き」では数時間から10数時間焼き込んだと推定されている。
地表の標準大圧力は約1気圧(1030 ヘクトパスカル)で、野焼(焚き火)は燃料を沢山くべても500~700℃程度にしか上がらないといわれている。こうした空気にふれながら焼くと素地に含まれている鉄分が酸化焼成によって酸化第二鉄を生じて土器は赤色に、燃料が当たったところは黒く炭化した土器が焼きあがる。
今から16000年前、地球の台地が46億年かかつて育んだ土を使って、わが国では縄文時代に陶磁器の元祖ともいえる土器で、深鉢を焼くことを覚えた。輪積という紐造りつくりである。
考古学や地質学の研究には今日まで経過した時間を推定する「放射性炭素年代測定法(ほうしゃせいたんそねんだいそくていほう)」が現在では不可欠なものになっているが、富山市関ヶ丘の竪穴式住居址から出土した縄文土器には “おこげ” が付着していた。年代測定技術が進歩した「AMS法」で調べたところ約4800年前に使われていたことがわかったという。
炭素は生物に含まれる主要な元素の一つだから、土器に付いている炭化した米や種、動物の歯、骨、貝、植物の繊維、マンモスの毛数本あれば、分析センターなどで測定してもらえるようだ。
15,500~16,500年前、縄文時代草創期初頭に焼かれた無紋の縄文土器が青森県津軽半島にある大平山元遺跡でみつかった。また長崎県佐世保の泉福寺洞窟からは約12000~13000年前の「豆粒文土器」が昭和44年(1969)に佐世保市大野中学校の生徒によって発見され、国学院大學で発掘調査された。胴がふくらみ丸底に近い平底で胴に粘土粒が貼りつけられている当時、世界一古い土器とされた。
日本海に面した北陸地方にも草創期から前期にかけて(今から約12000〜5000年前)の集落があった。1961年、福井県三方上中郡にある高瀬川の護岸工事の時、当時、立教大学の学生が多くの土器片や貝殻、クルミを見つけた。この発見により、工事を中止して立教大学、同志社大学,福井県教育委員会、若狭考古学研究会などが昭和37年(1962)から10年間にわたって発掘調査をおこなった。
ここは5つの湖を囲うように緑豊かな丘陵が、まるで古墳のように浮かんで見え、都会人には心が癒される無何有の郷である。美浜町と若狭町にまたがる若狭湾国定公園の三方五湖のある福井県三方上中(みかたかみなか)郡若狭町三方湖の南約1km、三方湖に流入する鰣(はす)川と高瀬川の合流点にあった縄文時代の『鳥浜貝塚』の遺跡である。その堆積層は厚さ3m以上あり、最下層は海面下3mに達していたという。
どの層からも貝殻、クルミが出土しているが、下層から12000年前の縄文草創期の爪形文土器、約一万年前の縄目で文様をつけた多縄文土器、中間層に早期(約8000年前)の押型文土器、そして前期には京都市小倉町遺跡の土器にちなんだ「北白川下層式」とよばれる土器型式が堆積していた。この北白川下層式縄文土器は岡山県倉敷市羽島貝塚などの中国地方から関西地方の影響もあるようだ。
器以外に日本最古といわれる縄文時代前期の丸木舟(単材刳舟)が1981年に出土している。直径1メートルの杉の木を刳り貫いた全長6メートル、最大巾63センチという刳舟という丸木舟が出土した。さらに1982年には縄文後期の丸木舟の船底のみが出土している。三方湖は淡水湖だが、若狭湾も近く、クジラ、サメ、シャチ、イルカ、マグロやカツオ、ぶり、鯛などの海水魚をこの丸木舟にのって捕獲して食べていたこともわかった。
鳥浜貝塚から発掘された「丹彩土器」(高10㎝)は焼成後、赤漆で現代アートのような彩色が施されている。日常使いではなく祭器として使われたのだろうか、赤・黒の漆で幾何学文様を描いた彩漆土器や赤彩が施された浅鉢形土器なども出土している。精製した生漆に本朱といわれる水銀朱(主に北海道産)やベンガラを同量ほど加えて赤漆を拵える。福井県は「越前漆器の郷」(鯖江に越前漆器伝統産業会館「うるしの里会館」)があるが、この技術を1万2千~5千年前の縄文時代前期の集落がすでに持っていたことに驚きを隠せない。(漆は奈良時代以前に大陸から持ち込まれたと考えられていたが、1984年に福井の鳥浜貝塚から出土した木片を東北大学で調査したところおよそ12600年前の漆の木の枝であることが判明した。これは縄文時代草創期と縄文時代前期に属する時代に日本国内に自生していことを示唆している。)
同じく鳥浜貝塚から発掘された6100年前の赤漆塗りの飾り櫛(重要文化財)は藪椿を使った刻歯式の櫛に三層の漆塗りであった。この櫛は発掘されてから水の中で保存していると聞くが、近年、鎌倉の遺跡からも鎌倉彫の漆製品が朽ち果てることなく出土している。漆は乾燥に弱いから鳥浜貝塚と同じように、地下水位が高い鎌倉の水分の多い地中で保存されていたからだろう。
鳥浜には作りかけの骨の櫛(重文)もあった。木製品では杓文字、桜の皮を巻いた弓、櫂、木の繊維を使った縄や篭などなど多様なものが多く出土している。矢尻などは遠くの香川県サヌカイト、隠岐の島の黒曜石で作られていた。5500年前、大洪水に見舞われて鳥浜貝塚村を捨てるまで、縄文生活を謳歌していたのが想像できる。
土器は多孔質で吸水性もある。給水性が〇%のガラスや磁器などよりも強い耐火性があり、現代の土鍋のように、火に掛けても割れずに煮炊きすることができた。
‥‥土器造りは女性の仕事。お父さんの職業は「向こう三軒両隣」すべて狩人兼漁師。(貝塚から出土する貝の種類は200種にのぼるといわれている)‥‥して残ったお母さんは子育てをしながら土を捏ねて土器を造ったのだろうか。落葉広葉樹に支えられた栗、ドングリ、クルミを拾い、山芋を掘って土器に貯蔵し、ほかの土器で魚や草食動物を料理して夕餉の支度をしたのだろう。
縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)、青森の三内丸山遺跡では
大地を切りちぎり、創りあげた原始芸術ともいえる円筒土器が大量に発掘された‥‥。
そこには自然美への礼讃という縄文人の捉えた美意識による数百という縄目模様を駆使した土器を生みだした。縄文土器に願や祈りをこめて土器に命を吹き込んだ。またそれによって炎を捕らえやすくした。
土器を創りだす喜びや生きる喜びを持って、家庭を守る女性によって創られたに違いない。
縄文初期の尖底土器にも煮炊きに使った跡が確認されている。使うことで太古の人々は器が水漏れしやすいことを知ったが、煮炊きを繰り返すことでその水漏れを防ぐことも覚え、三内丸山遺跡でも漆を漏れ止めに使っていた。
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