2025年09月26日

辻清明(つじ せいめい)

1927年 (昭和2年) 1月4日、東京府荏原郡世田谷町大字大師堂(現・世田谷区太子堂)に実業家の辻清吉の次男(4人兄弟の末っ子)に辻清明(本名:きよはる)は生まれた。

骨董好きの父親の影響を受け、9歳の誕生日には父にせがんで、透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」(戦火で焼失)を買ってもらうほど、美術工芸に対して才気煥発な少年だった。

こうした裕福な家庭の影響下で少年の頃より陶芸に興味を持っていた辻は轆轤を買ってもらい、11歳の時から見よう見まねで廻していた。14歳の時には世田谷区若林の自宅に陶房を造って、富本憲吉に師事していた姉の輝子とともに辻陶器研究所を設立している。(輝子は日本の女性陶芸家第1号といわれている)

中国陶磁の白磁や天目の荘厳さに魅かれていた辻は、1941(昭和16年)に石炭を燃料とした倒焰式窯を築いた。姉から紹介を受けた同区祖師谷の富本憲吉に強く影響を受けて足繁く通った。

さらに北区田端に工房を構える板谷波山のもとへ通い教えを受けている。十代で陶芸を目指す辻の熱意を感じ取って気を許してくれたのだろう。その影響下で白瓷や天目、染付の作品などを主に焼成し、天目では木の葉天目にも挑んでいる。中学生の頃、日本橋高島屋の常設展示ケースを持っほど夙成の陶芸家だった。この間、学校へはほとんど行かず、頻繁に父を訪れる古美術商の古美術品や話に影響を受けて陶芸への感性が磨かれていった。

信楽窯変茶盌径14.6 ×12.1㎝ 高9.3cm 
 同高台

戦時中には岩手田野畑村に疎開、ここで過ごしたことで生活の原点を大自然から教わり、野生の魚や虫と対話しつつ生活を送った。1947年(昭和22年)1月から新匠工芸会を主幹していた富本憲吉の研究員のメンバーに加えてもらい参加した時、神妙に先輩たちの話を聞いたという。

旧国画会工芸部を退会した富本憲吉を中心に、1947年(昭和22年)1月に新匠工芸会は富本憲吉を中心に発足し、会員には北出塔次郎、福田力三郎、山田喆、加藤土師萌、近藤悠三、ガラスの佐藤潤四郎、鍛金の後藤年彦らがいた。

1948(昭和23年)、辻は新匠工芸会展に初出品、札幌市で初の個展開催して陶芸家としての自覚を高めていった。1951年、同志と「新工人」会を設立。漆芸家であった和田協子もメンバーだった。

1952(昭和27年)和田協子(陶名は協)と結婚、武蔵野の面影をもつ南多摩(現・多摩市連光寺)で半陶半農の生活を始めた。

転機となったのは1959年のこと、小山冨士夫から六古窯の話を聞いた32歳の時。素朴な山茶碗など無釉焼締陶に興味を抱いた。大自然が長い年月をかけて作り出した自然界の土、その土の恩恵を作品に生かす信楽土に取り憑かれていった。

信楽に自然の原土そのものがもつ長石や珪石の粒が混入した力強い土に焦点を合わせたからであろう。それは中国陶磁のもつ表面的な飾りや上釉に終始することからの脱却でもあった。

多摩丘陵で信楽土を使って制作をし始めた1955(昭和30年)、辻清明は26歳。この頃、本場の滋賀県信楽では四代上田直方(1898~1975)、三代高橋楽斎(1898~1976)、高橋春斎(1927~2011)らが活躍していた。彼ら信楽の陶芸家や古信楽にみられる素直な造形や酸化焼成が信楽焼の伝統でもあった。

古信楽は枯淡なうちに明るさがあるのが特徴である。

とくに明るい緋色の出やすい信楽の黄瀬土は北大路魯山人をはじめ、川喜田半泥子、加藤唐九郎、八木一夫、鈴木治、山田光などが好んで使っていた。

常滑の影響を受けて稼働した信楽焼の土は、紫香楽の宮にほど近い黄瀬の土で、鎌倉時代から使われ始めている。「黄瀬土」(きのせつち)は昭和時代の戦後、信楽土のブランド土となった‥‥石英・長石の粒を含んだ蛙目粘土で耐火度もあり、薪での焼成を重ねることで自然釉を深く浸透させるという天功のうまみさへ加わり、釉の流れ、釉の溜まりが美しく、明るい土味とともに見飽きぬ風情を添えてくれる。

辻はこの土を使って信楽から遠く離れた武蔵野の面影が残る多磨丘陵に登窯を築窯して独自の信楽焼を開発していく。

辻陶器工房を設立した辻は信楽の原土を取り寄せた。粘土を採掘する雲林院から信楽最良の土といわれる黄瀬土を採掘する送られた鉄分が少なく灰白色の微石粒を含んだ明るい色調の良好な粘土である。酸化焼成によって黄緑色ないし赤褐色を呈する。古信楽は枯淡なうちに明るい緋色の出やすい黄瀬土の不純物を取り除いてから水を加えて足で土を踏み、菊練りした後、重い欅の手廻し轆轤で作り始める。

多摩丘陵連光寺の高台に3室の登窯を築窯して、初窯を3昼夜焚いた。ところが初窯特有の湿気で窯壁は乾いておらず、燃料の薪も生木を使用してしまったので焼成温度が上がらず、さらに悪いことに制作したありったけの作品を窯に詰め過ぎてしまい、焔の通り道を確保できずに窯出したが、ほぼ失敗してしまった。

信楽板皿 銘「日の出」径23.0 ×22.5 高5.1cm
  信楽石目くしがき皿径17.2㎝ 高3.3cm

北大路魯山人作品に対して辻の言葉が残っている。

「古陶磁や古窯址を訪ね陶片を集めて独自の世界をもち、その右のでる者はいない。サイン一つ、芒一本だってちゃんと勘所はおさえている」と魯山人作品を鑑賞するために火土火土美房を週に2回ほど通い、何度か購入もした。

こうして魯山人の影響が見られるタタラ作りの食器群などに取り組んだ。

1960(昭和35年)33歳の時、小山冨士夫から紹介された備前の藤原啓窯で10日間ほど作陶、手伝いに来ていた甥の藤原建と意気投合した。藤原建は魯山人の星ヶ岡窯に備前窯を金重陶陽と共に築窯し、暫く滞在した星ヶ岡窯で備前登窯の焼成を魯山人に伝授し、魯山人から多くのことを学んだ作家である。力強く、土を活かす備前焼の正道をいく建の備前作品は品格高く定評があった。清明より3歳年上、建の造る備前焼に魅了させられた清明は好んで建と酒を飲み交わし、建は東京日本橋での個展の後に連光寺の清明窯へ案内されなど、互いの窯を往き来するようになった。

信楽巻貝角杯 径5.6× 4.9 cm 高8.9cm

まず、備前で藤原建は独特の窯詰め法を教えた。建は変化のある景色をとるため陶板を火前で平面に置いて焼成していた。こうすると切れにくくなるので、側面などに立掛けて焼成していた。また花入、徳利などの作品を火床に寝かせ、その上で薪を焼成して窯変という変化をもたせていた。信楽では行われていない焼成方法だった。辻はこれに感化され、連光寺にもどって、倣った方法で窯詰することで見所のある作品をうむようになった。登窯も3室から5室に改造して、1、2室には唐津や釉薬ものや協夫人の作品を窯詰めし、3、4、5室には信楽作品を匣鉢を使わない平詰めして赤松を燃料に5日間焼成した。

信楽土自然釉茶盌  径13.2 ×11.6 ㎝ 高8.8cm

信楽の黄瀬土は鉄分が少なく灰白色の微石粒を含んだ明るい色調の良好な胎土で、酸化焼成によって黄緑色ないし赤褐色を呈する。

1964年、辻はこれが信楽特有の美と特徴づけた山口諭助氏の著作にあった「明る寂び(あかるさび)という言葉が、私の心を捕らえた。宿命を素直に受け入れ、自然と合一する静寂の境地というだけでなく、この言葉には華がある。優美でのびやかで、夜明けの空に似た澄んだ気配がある。私の心の波長とぴったりきたのである。」と語っている。37歳のときである。

信楽盃

1980年のことだった。「奥高麗茶碗を拝見したい」とご連絡をいただき、当苑の小座敷にあがり、両肘を膝の上に載せて両手で茶碗を持って熱心にご覧になっていた。

「枇杷色の熊川形の典型的な奥高麗茶碗だね」と関心を示されて、

「‥‥僕の作品と交換しようか?」と冗談を言われ、その後も何度か観に来られた。

これを期に還元した灰釉が特徴の古唐津に倣っていた唐津作品に、酸化気味の奥高麗的な枇杷色を狙った下記のような作品が多くなる。

   絵唐津盃 径6.0 高6.5cm
    唐津盃 径6.0㎝ 高7.7cm
唐津茶碗 w11.8 / 11.3 / H9.2cm

1976年、韓国の金海市に滞在して数ヶ月の作陶を行った。さらに1982年10月28日から一月ほど韓国の慶州で白瓷や灰釉で制作している。

慶州土白磁盃 径7.6㎝ 高5.2㎝
白磁蕪鉢 径18.5㎝ 高11.5㎝
慶州土木の葉皿(五客) 凡そ:径24.0× 15.5㎝ 高2.6cm

多摩・連光寺の工房が付近の開発により登窯焼成などの仕事への支障が懸念されたため、約10年を費やして、還暦を迎えた1987(昭和62年)、長野県南安曇郡穂高町有明の別荘地奥に10年を費やして100坪の工房と登窯を完成させた。

これは新潟県最西端の糸魚川にあった270年を経た古民家を解体し、新たに設計し直した茅葺屋根の豪壮・壮大な屋敷である。辻は屋敷の梁や柱は漆を塗らせ、そのほかの木材には亜麻仁油を弟子たちとともに皆で塗り、李朝家具を配置した。

二階にある元蚕部屋を改装して収蔵庫とした。辻が半世紀かけて蒐集した縄文土器から古信楽などの六古窯、唐津、美濃をはじめとした古陶磁、古代ペルーの土器、エジプトのコアガラス、シリアのローマングラス、ルネ・ラリック、日本の江戸切子にガラス、鉄器などを含めた古美術品をストックした。別棟には高野槇の風呂を2つ備え、その一つには松本の漆芸家に漆を塗らせるという凝ったものであった。

1989(平成元年)、ここで新たに築窯した登窯(5袋)窯で初窯を焼成した。戦時中は陸中海岸にほど近い岩手田野畑村に疎開した縁もあり、岩手の土を使った作品を焼成した。

‥‥なんとその年の暮れの事であった。

長野県穂高町有明の邸宅が完成2年後の1989(平成元年)12月、工房を焼失してしまったのだ。

連日、暖をとるため囲炉裏に薪をくべて焚いていた。乾燥し切った茅葺屋根の家で、屋根裏近くに熱がこもり茅が発火したもので、僅か10分ほどで焼け落ちてしまったというのだ。

登窯だけは延焼をまぬがれたが、古美術品2000点、書籍が灰燼に帰した。62歳の辻清明は茫然自失、その落胆ぶりは想像するにあまりある。

この二年後の1991年、群馬の上越クリスタル硝子でガラス作品に取り組んだ。

硝子筒茶盌 径9.3㎝ 高9.7cm
硝子蕪鉢 径26.1 ×21.3㎝ 高13.6cm

2006年には東京都名誉都民に顕彰され、華道家の假屋崎省吾と陶匠の辻晴明でコラボした「花炎」を青山の梅窓院で意匠栩の取り合わせで開催した。

辻清明は富本憲吉、板谷波山を始めとして、小山冨士夫、加藤唐九郎、加藤土師萌、濱田庄司、藤原啓、藤原建などの陶芸家や安部公房、池田満寿夫、遠藤周作、平櫛田中、前田青邨、山口長男、大岡信(まこと)、岡本太郎、佐藤陽子、サムフランシス、多田美波、流政之などの文学や芸術や音楽に携わった巨匠作家たち、そして清水公照、立花大亀、ドナルド・キーン、道場六三郎、ロックフェラーなどの誠に多彩な方々との出会いは辻清明の芸術をより深く高めたに違いない。

多種多様なのは交友関係だけではなく、世界中のありとあらゆる美術分野の一大コレクションも辻先生を語るには欠かせません。

歿後の2010年、愛知県陶磁資料館では「陶芸家・辻清明の眼 ー作品とコレクションー」や東京国立近代美術館工芸館にて「陶匠 辻󠄀清明の世界 – 明る寂びの美」が9月15日から11月23日にかけて開催。

2017年にサントリー美術館では世界の古代ガラスからオリエント・中国・ヨーロッパ、和ガラスの寄贈記念のコレクション展が開催された。

辻清明
しぶや黒田陶苑「辻清明展」図録より

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略歴

1927年 東京府荏原郡(現・世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持つ

1938年 11歳のとき轆轤を学ぶ
1941年 14歳の時に姉・輝子と共に「辻陶器研究所」を設立、倒焔式石炭窯を築く

1943年 やきものの文房具類を高島屋にて常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く
1948年 富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品

    札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催

1949年 ガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功

1951年 「新工人協会」を結成し、以後約十年にわたって活動

1952年 第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞
1953年 1月新工人のメンバー和田協子(陶名は協)と結婚。

1955年 多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土の作品を作った。

    初窯は失敗してしまう。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。

1956年 朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員

1960年 小山冨士夫の紹介された備前藤原啓窯で作陶、藤原建を知り備前の焼成法を伝授される

1962年 妻の協子とともに、辻清明・協新作陶芸展(日本橋三越)で開催
1963年 五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める
1964年 日本陶磁協会賞受章、現代国際陶芸展招待出品

1965年 アメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める
1967年 米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される

1968年 東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品

1969年 三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催

1970年 京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品

    京都国立近代美術館に「信楽壺」、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が所蔵される

1971年 毎日新聞社主催「日本陶芸展」に2005年まで招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される

1973年 西ドイツヘニッシ画廊で個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める

1974年 迎賓館が作品を買上。「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品

1976年 「作陶三十五周年記念 辻清明」展(壺中居)にて開催

1978年 小田急百貨店画廊にて個展を開催

1979年 日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員、自身も出品

1980年 日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品

1981年 「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」(新宿・小田急百貨店)にて開催

1982年 『辻清明器蒐集』を出版。作陶45周年記念「炎の陶匠 辻清明」展(西武美術館)開催

1983年 日本陶磁協会金賞を受賞 

1986年 作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)出版

1987年 多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念され長野県穂高町希明に工房登窯を完成

1989年 登窯(5袋)を築き、岩手の土で制作して初窯を出す

    12月、工房と母屋が、蒐集した工芸品・書籍と共に焼失する

1990年 藤原啓記念賞受賞(藤原啓記念賞は1982年 設立)

1991年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)にて江戸切子などガラスコレクションを展観

    自身の「ガラス器展」を銀座吉井画廊で開催

1993年 NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演

1996年 『焱に生きる辻清明自伝』 (日本経済新聞社)、『遊びをせんとや生れけむ』(平凡社)出版
2003年 ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」招待出品

2006年 東京都名誉都民に顕彰される。華道家の假屋崎省吾と展示会「花炎」を開催

2007年 「美の陶匠 辻清明傘寿展」(大阪梅田阪急)開催
2007年 「辻清明傘寿展」を開催
2008年 4月15日肝臓がんのため死去。享年81。 7月8日、妻協子(享年77)、肝臓がんのため死去

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2010年に愛知県陶磁資料館にて「陶芸家・辻清明の眼 ー作品とコレクションー」

2017年には没後10年を記念して、東京国立近代美術館工芸館にて「陶匠 辻󠄀清明の世界 – 明る寂びの美」が9月15日から11月23日にかけて開催。さらにサントリー美術館では世界の古代ガラスからオリエント・中国・ヨーロッパ、和ガラスの寄贈記念「コレクション展」を開催される

没後の10年、『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)刊行された

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魯山人「大雅堂」「美食倶楽部」発祥の地

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