伊勢湾に突き出た知多半島と、風光明媚な三河湾の海道をはさんだ細長い渥美半島に「常滑」と「渥美」という兄弟のような古窯跡が寄り添っている。
米軍が日本本土初の空爆を行ったのは昭和17年(1942)のことで、神奈川県の京浜工業地帯であった。この頃、同じ神奈川県東横線日吉駅から1.5キロ離れた川崎市加瀬「白山古墳」(全長87メートル)の前方後円墳の後円部下方から『秋草壺』が出土した。
この古墳は4世紀後半に築造されたこの地方の豪族の墳墓と考えられているが、当時、住宅営団の土地造成中、道路拡張の時に偶然発見されたもので古墳の跡形がない雑木林だった。さらに出土した秋草壺は12世紀に制作された壺だと判明したことから、ちょっと謎めいていた。
この壺は人骨が入った蔵骨器だったが、地主の仁藤市太郎氏に引き取られ、のちに慶応義塾大学に譲り渡された。北加瀬の寿福寺に供養料として5円納めたという。
昭和25年5月公布の「文化財保護法」により、今までの国宝はすべて重要文化財となって、昭和28年(1953)、その中から新たに国宝が指定された。陶磁器では新国宝第一号にこの「秋草文壷」が指定され、現在は東京国立博物館に寄託されている。

(高41.5cm 口径16cm、胴部径29cm、底部径14cm)
渥美窯は猿投窯から山茶碗、山皿、捏鉢などの技法を踏襲した常滑とよく同一視されるが、渥美窯は砂質でやや焼しまりがなく、常滑より少し脆い感じがする。渥美窯の自然釉は多彩で12世紀に焼かれた国宝の秋草紋壺のように釘彫りされた秋草文、連弁文、宝相唐草や袈裟襷文(けさだすきもん)に灰釉が施された器形も豊かで芸術性に富んでいる。
国宝となった“秋草文壷”を平安末に焼いた渥美窯は13世紀末の鎌倉時代後期には終焉を迎えるが、一方の常滑は海運を利用して北海道を除く全国へ販路を広げていった。
海運の力によって全国を席巻した常滑焼
肩の張った猛々しい常滑の甕が12世紀前半から焼かれはじめ、中世の「六古窯」の中で最大の生産量を誇っていた。
この常滑をはじめて訪ねたのは50年以上も前のことになった。常滑は伊勢湾を臨んだ知多半島西岸にある古い港町で、‟起伏の多い煙突の街”だと印象に残った。かつては土管や焼酎瓶を石炭や重油で焼くための巨大な窯に立つ500本ほどの煙突が林立し、晴れた日でも太陽の光が遮られるほど。それは明治の終わりに燃費の悪い登窯(薪窯)に代わってドイツ系の倒炎式石炭窯や重油窯という非常に大きな窯から黒煙とともに吐きだされたからだった。煤は街の隅々に吹き溜まりとなり、風が吹けばいたるところで小さな渦を巻いていた。
「常滑の雀は真っ黒だ」といわれたほどに、1970年頃にはじめて常滑の窯元を訪ねた時には、工業化が進み、大気汚染が深刻化していた。私も鼻の穴のなかは真っ黒となるほどで、宿も少なく観光客の姿は稀だった。
昭和36年(1961)に堀口捨己の設計で自然光を採り入れた展示室のある「常滑陶芸研究所」が、伊奈製陶株式会社(現LIXIL)の創業者・伊奈長三郎の尽力により落成した。古常滑の復興や若手陶芸家育成に多大な影響を与え、世界を舞台に常滑焼の名を高める原動力となった場所となった。
1985年から1991年のバブル時代全盛期には急須の窯元やタイル工場などの事業所400軒以上あって、1万人近くの常滑焼就業者がいたという。
統治、私が訪ねた常滑陶芸家は江崎一生、三代山田常山、山田健吉、和、谷川菁山、大迫みきを、沢田重雄、嘉予子、小西洋平、鯉江廣、猪飼真吾らであった。

2000年代に入ると常滑市の環境は改善され、現在では大気汚染も無くなって小高い丘に『やきもの散歩道』という土管や焼酎瓶の小径“土管坂”もでき、遺された登窯のある“陶榮窯広場”や常滑市歴史民俗資料館、世界のタイル博物館などが次々に開館してやきもの好きには愉しい一大観光地となった。

1974年(昭和49年)に廃窯したが、備前焼に土管造りを教えた全盛期を偲ばせる煉瓦造りの煙突が残存している。
祭器や供膳(食器)用を焼いてきた須恵器は土師器にとって変わられ、猿投窯以外のどこの陶業地も平安中期から鎌倉初期には低迷していたが、12世紀の平安末期に美濃・瀬戸とともに猿投窯の流れを汲んだ常滑焼は稼働しはじめた。
古窯址発掘に意欲を燃やしていた小山冨士夫、そして地元の沢田由治の努力で平安後期から神社や貴族向けの祭器や器を生産していた窖窯の跡が常滑丘陵で続々と発掘された。
さらに昭和22年(1947)の大干ばつを契機に、「木曽川から知多半島に水を引こう」という構想の元、愛知用水公団の工事開始に先だった調査があり、昭和28年から次々に古窯址が発見され、その数はなんと数千基を数え、平安末期(12世紀)に瀬戸とともに猿投古窯の流れを汲んだ陶工集団が南下して、知多半島丘陵地のほぼ全域に窖窯が築いて稼働した。こうして日本六古窯のなかでも中世最大の規模を誇っていたことが明らかにされた。
太平洋に面している常滑はその海運を活かして南は種子島から九州、四国、中国、和歌山、東北の平泉、北は青森まで広い範囲の寺社、墳墓、経塚から発見されている。盗掘にさえ遭わねば経筒を入れたまま出土することが多かった。
青銅製などの経筒に経典を入れたほか、胡麻油にベンガラを含ませた柔らかい布で磨いた和鏡や宋銭、合子、玉などに除湿剤になる炭とともに、この常滑経壺に入れて、地中に埋納する際に用いられた。
室町時代に入ると窯は常滑の中心部に集まり、地下式窖窯から半地上式大窯に代わり、褐色の胎土に自然釉の真焼の甕など日常雑器が多く作られた。
ところが、茶の湯を全盛に導いた織田信長、豊臣秀吉が牛耳った安土桃山時代、常滑三代城主・水野監物が京嵯峨野で割腹するなど、江戸時代には茶の湯に採りあげられることが少なくなり、江戸後期には連房式登窯が現れ、土管・甕・火鉢などが焼かれるようになる。

この頃、ようやく急須が煎茶道具の中心的存在となって、安政年間、杉江寿門が常滑で初めて『朱泥』を完成した。
さらに明治11年(1878)、タタラ作りの技法を熟知していた中国宜興(ぎこう)の陶工・金士恒(きんしこう)を近代土管の父と呼ばれた鯉江方寿が常滑に招いて方寿や四代伊奈長三、三代赤井陶然らに朱泥茶注のタタラつくりと陰刻の装飾技術を伝承させた。その後、鯉江方寿の金島山窯で修業した初代の山田常山も中国宜興に倣った端正な轆轤技術を発揮して、常滑急須の名が全国に知れ渡っていく。
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次回:陶のきた径㉞ 六古窯 『常滑』その2 山茶碗・三筋壺のこと
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