古から倭国で須恵器を興したという新羅の王子と自称する天日槍(天之日矛・あめのひぼこ)の伝説があった。
古代の歴史を伝えるという記紀(『古事記』と『日本書紀』)には、第一一代の天皇となった垂仁天皇三年(在位BC二九~AD七〇、生年不詳だが140才にて没といわれている)の条に、新羅の王子・天日槍に従ってきた陶工によってわが国に新羅陶質土器の技術もたらされたというのである。
『日本書紀』によると、天日槍一行は瀬戸内海から兎道川(ウジガワ)を上り、近江国蒲生郡鏡邑の谷(現在の滋賀県蒲生郡竜王町鏡)にはいり、鏡山の裾野に窖窯を築いて祖国で作っていた新羅土器の技法を伝えたという。
天日槍(あめのひぼこ)を産土神として祀る鏡神社本殿(重要文化財)がある。
「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」
と神社由緒にあり、竜王町には須恵という地名ができ、鏡山神社の境内には、「史跡 鏡山陶部址」という碑が立っている。ここ近江国蒲生郡鏡村(竜王町)には古墳や銅鐸が出土している。
蒲生は早くから拓けた地方とされ、滋賀県の鏡山中腹から鏡・須恵集落にかけての傾斜地には約五〇基の六世紀中頃から後半までの須恵器の古窯址が発見されている。轆轤を使って窖窯で焼いたという画期的な須恵器であった。日本書紀にある垂仁天皇の時代は紀元前一世紀頃だが、天日槍一行の「近江国鏡谷の陶人」の居住地とされている。
鏡谷窯を興した天日槍はここにしばらく住み、さらに近江から若狭国を経て、兵庫の但馬(たじま)へと居所を定めた。陶人たちは、天日槍に従って大きな石を動かして泥の海であった但馬を、大地を切り開いて水を日本海に流したという伝説があり、ここを永住の地と定めたと伝えられ、但馬の国を拓いた開発の神とされて出石神社に祭られている。

出石神社は兵庫県北部、出石盆地東縁の山裾に鎮座する神社である。
この地域には18世紀後半に有田の職人を招いて磁器生産が開始され「出石焼」が発祥した。
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「全国に散らばった工芸家たちをまとめ、租税として須恵器を朝廷へ納めるように」と天皇から命令された秦氏(百済からの帰化人)は、全国の197軒の窯元を統括し、あらかじめ定められた瓶(甕)・壺・鉢・高坏・皿など各種の須恵器を、租税と賦役の代わりに朝廷に納めさせた。
奈良時代には良質の陶土を産する摂津、近江、播磨、讃岐、筑前、和泉、美濃、備前の八カ国などでは国衙の生産管理下におかれ、「須恵器」の調納国と定められた。
最大の須恵器古窯址は堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる和泉河内「陶邑窯跡群」である。
吹田市域の摂津「千里古窯址群」、豊中市北部の「桜井谷窯址群」、兵庫県加古川市の札馬(さつま)古窯址群。近江では天日槍伝説が残る滋賀県蒲生郡の「鏡山古窯址群」。
備前國では須恵器の中で最も白い須恵器を焼いた岡山県の「邑久古窯址群」。
讃岐の國には「香川県陶邑窯址群」、ミカン畑にあった三豊市「宮山窯跡」。

筑前は西日本最大といわれる福岡県大野城市の「牛頸窯跡(うしくびかまあと)群」、福岡県「朝倉須恵器窯跡」、「小隈、山隈、八並窯址群」など。
美濃國は各務原市・関市・岐阜市に広がる「美濃須衛窯址群」。
尾張の國では名古屋市東部から豊田市、瀬戸市、刈谷市北部に集中する「猿投山(さなげやま)西南麓(ろく)窯址群」。猿投窯と並んで一大産地である愛知県春日井市、小牧市、犬山市の丘陵地帯に尾北古窯址群(びほくこようせきぐん)。
播磨では神戸市の「出合窯跡」。
関東では武蔵國の埼玉県鳩山町の南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)、南多摩窯跡群(東京都町田、八王子ほか)などであった。
これらの陶部は専業の陶工たちの集団であったことを示しており、須恵、須江、須衛、末、陶、主恵、末、主衛…などは「須恵器」を焼いた地名の名残で、丘陵地帯にある窯跡には緑色の自然釉が美しい陶片や窯壁が散乱したりしており、本格的に須恵器生産が始まった奈良時代に須恵器の貢納国とされた備前には東須恵、西須恵という地名が残っている。
古墳時代の初期須恵器の生産から、祭器や古墳の副葬品として貴重品扱いされていた。
多くの須恵器古窯址が発掘されているが、未だに手つかずのまま地中に埋もれている所も多いと考えられている。
また、須恵器はかなり早くから茶人や趣味人たちの間で、百済から渡来した高僧・行基(ぎょうき)が焼かせた、という伝説から「行基焼」と呼ばれて珍重されていたことがあった。
平安中期に造られた漢和辞書『和名類聚抄』(わみょう るいじゅしょう)に瓦器を「須恵宇都波毛能」(すゑのうつわもの)と記載されている。
渡来の陶部という陶工たちが、個々の思い付きとかではなく、大和朝廷より決められた形状の須恵器を生産する。
古窯址の物原から出土するのは窯変とか灰被が多く、それらは失敗作とみなされ、鑑賞的なものより、画一的で端正な造形とともに丈夫さも求められていたことになる。
となれば、縄文や弥生土器のように手びねりし、野焼きしていた倭国の陶工をしり目に轆轤を使って設計どおりに丹念に成形し、還元焼成の窖窯で燻すことで水漏れを防ぎ、高温焼成という生産技術が画期的に革新されたのである。
こうした須恵器を生産したことで、北海道以外の全国にこの技術が伝承されたのは、百済や伽耶からの陶工によるところが大きい。