六古窯”生みの親‥‥小山冨士夫という人
小山冨士夫(1900~ 75)は岡山県玉島町に七人兄弟の長男として生まれた。誕生の日、「岡山特産・花筵」を輸出していた貿易商の父は富士山に登頂していたため「冨士夫」と命名されたという。4歳の時、父の仕事で東京の三田台町へ転居。小山は社会主義に共鳴して東京商科大学(現・一橋大学)を中退し、一労働者として第一歩を踏み出すために蟹工船に乗り込んでカムチャッカで自らの意思で過酷な労働に従事した。腕相撲ではロシアの大男も相手にならぬという人一倍腕力が強かった。
関東大震災の報を聞き、賃金をもらって急遽帰国の途につくが、青函連絡船の中で貧しい老婆をみて、東京までの汽車賃だけを残して、蟹工船の稼ぎをすべて与えた。漸く震災で荒れた東京へ帰り、さっそく救援活動に参加、風呂桶を大八車に載せて持ち出し、三田の自宅から新大橋、深川八幡まで行き、人々に入浴の奉仕をした。大八車だけでも重いのに小山は力持ちであったからできたのであろう。また、自分の大切な蔵書を売って食物を買い、困っている人々を助けたほどのボランテア精神が旺盛な慈善家であった。
大正時代、やきものに興味を持って上野の帝国図書館に通い、図書館にあるだけの陶磁器の本を片っ端から読破した。本を読むうちにより実践的な陶工への道を選ぶこととして実作者としての陶芸家を志した。まず焼き物のメッカ瀬戸の陶芸家矢野陶々に弟子入りした。
ある日、面倒を見てくれていた職人の余郷潔に古窯址へ連れて行かれた。瀬戸の小長曽古窯址だった。小山にとってこの時がはじめての古窯址散策であった。朽ち葉色の古瀬戸陶片から得た感動は終生忘れることは出来ないものとなった。
さらに京都の陶家で修業してのち、はじめて朝鮮半島と中国への陶磁器研究へ出かけた。大正15年の春のことであった。
帰国して独立したのは京都今熊野日吉町(通称・蛇ヶ谷)の一軒家を借りて『寒』と号した。一人で轆轤を廻し、共同窯で焼いた。終生の友となる石黒宗麿(のちの人間国宝)と知り合ったのもこの時である。小山は中国陶磁を手本にした薄手のものをと白磁や青瓷、磁州窯風を作った。
岡山県備前市三石に磁土があると聞き、“ギチ”という貴重な磁土を一俵だけ取りに行った。このギチと蛙目粘土を半々に合わせて作った白高麗は出来がよく、煎茶碗を名古屋の茶房に気に入られ、三石に採掘しようと行って見たが、ギチの原料は採りつくされて無くなっていた。ほかの原料で一年ほど白磁だけを焼いていたが、「白さにカゲリがあり気に食わない」と全部壊し、その破片で部屋が一杯になってしまったという。
こうした作陶における自分の未熟さを感じて、基礎となる古窯址を徹底的に調査しようと思い立った。
東京へ戻って、古陶磁の研究を決意、無類の健脚を活かして日本のみならず朝鮮、中国、東南アジア、中近東まで文字通り渉猟(しょうりょう)した。その古窯址発掘調査は2000ヶ所以上、陶片の収集は20000万片におよび、その都度、調査の様子を克明に日記につけた。こうしたことから古陶研究雑誌の「やきもの趣味」、「茶わん」、「日本考古雑誌」などの雑誌に研究発表を載せた。その後、東洋陶磁学会委員長、日本工芸会理事長、日本陶磁協会常任理事などの役職のほか、出光美術館、本間美術館、佐野美術館理事。五島美術館、松永記念館、根津美術館、畠山記念館の顧問や評議員をつとめた。

小山は大正14年に瀬戸を、昭和3年に信楽、3年から4年に備前、6年には常滑、十年代には丹波の三本峠などの発掘調査によって、その研究成果として「現在も生産が続く代表的な窯業地」として「瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前」を『日本の五古窯』としていた。
中国の定窯で「白磁古窯址」を発見した翌、昭和17年(1942)7月、石黒宗麿らと立山連邦の剣岳に向かう途中、小山は越前古窯の下調べをしようと思い立って鯖江にて一人で下車をした。大正7年、上田三平によって須恵器窯や平等、熊谷などに古窯址があることが指摘されていたので、福井県鯖江で越前焼研究をしていた水野九右衛門(1921~1989)に声をかけ、福井県丹生郡織田町平等岳の谷にある大釜屋古窯址を調査して、中世の古窯であると確認した。この年は『宋磁』(聚楽社)を刊行するなど、忙しくしていた小山は石黒宗麿らと合流するため、水野に再び訪れることを約束してわずか一日で越前をあとにした。
死者約376万人という国民だけに耐えがたい苦しみを与えた太平洋戦争が終わってまもなく、小山は日本の陶磁文化を盛り立てようと日本陶磁協会の事業の一環として越前を再訪した。越前焼はこの時までに地元の研究者によって26ヶ所の古窯址が明らかになっていたが、水野九右衛門と織田焼陶芸家北野左仲(のち七左衛門)とともに古窯址をめぐって、「平等焼」「織田焼」「小曾原焼」「熊谷焼」と個々に呼ばれていた窯名を「越前焼」に統一することに決定した。

翌昭和22年(1947)、『陶磁味』第一号(四月発行)に『越前の古窯』と題して「越前窯は日本陶磁史上最も貴重な遺跡のひとつで、瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の日本五古窯に匹敵する規模と歴史がある」と、その結果を発表し、9月には「国立博物館ニュース」にも掲載。こうして六番目の『日本六古窯』として越前焼は広く知れ渡ることになった。
すでに日本の代表的古窯として脚光を浴びていた越前以外の五古窯は太平洋側の温暖な気候に恵まれている。私がはじめて越前に訪れた昭和40年頃の冬は、積雪が3メートル以上にもなる極寒の地であった。その裏日本といわれる日本海に面した越前焼にも小山冨士夫の努力で暖かな時が訪れたといえる。
その上、小山の「日本六古窯」という造語の提唱により古窯址のみならず、陶磁器への関心が深まり、愛好者も現代陶芸家も急増したのはいうまでもない。
エネルギッシュに東奔西走の小山の努力によって始めて紹介された越前古窯、古常滑などの窯業地がクローズアップされたことが、全国各地に残る平安末期から室町時代の六古窯以外の中世古窯址の発掘にもつながっていく。

※種子島焼は小山冨士夫によって創始された
東北では珠洲窯や加賀窯、越前窯の影響を受けた会津大戸窯に須恵器を含めた400基が発掘されて昭和の終わりから平成のはじめに調査された。平成20年(2007)には一二世紀の奥州藤原時代に稼働した岩手花立古窯址三基が発掘調査された。同年、鹿児島県の徳之島カムイヤキ窯は100基を数え、北海道と沖縄を除く全国87ヶ所の中世古窯が発掘されている。
小山自身も昭和30年(1955)、静岡県島田市の志戸呂焼の前身と思われる瓷器系の山茶碗窯と施釉陶器窯の存在を明らかにし、昭和33年(1958)には美濃中津川窯を小規模の中世古窯址としている。
特筆すべきは小山冨士夫自ら昭和46年(1971)には種子島焼を誕生させている。






