2023年08月13日

唐九郎と魯山人【下】

加藤唐九朗 志野茶碗

瀬戸窯の窯焚  

「魯山人は素人やから瀬戸窯は焼けんのやろ」と、初窯失敗の報を受けた唐九郎は数日後、悠々と様子を見に来た。

「星ヶ岡窯に瀬戸風の窯を築窯」と聞き京都からきた宮永東山は、「こんな勾配の窯はいかん」という。
「宮永さんは京都の窯しか知らんからじゃよ。京都の傾斜のあまい窯で、ナマナマしく焼いた人にはちょっと扱いにくいんじゃ」

「でもここは山間だから、湿気もだいぶ多かったようだ」と東山。

「湿気も火がいきゃァ、みんな蒸発しちゃうから大丈夫なんじゃ。急なほうが薪も得だし、熱も早くあがるんじゃ」

次の窯、唐九郎は窯焚役を勝って出た。

瀬戸式五連房登窯(星が岡窯)
瀬戸式五連房登窯(星が岡窯)
出典: 美と食の天才「魯山人」(講談社ARTBOX)

一の間、二の間では染付などの磁器を詰め、三の間に志野、織部、黄瀬戸作品を匣鉢を使って窯詰して一窯、焚いた。

二日ほど冷まして窯出しの日を迎えた。

魯山人は窯出しも唐九郎に任せてある。

なんと、念願の志野、織部、黄瀬戸が焼き上がり、染付も焼くことができた。志野は白天目のように薄いが、織部の調子は良い。機嫌が良くなった魯山人は唐九郎を食事に誘った。唐九郎は魯山人に問う。

「染付や色絵、三島、絵瀬戸、志野、織部など色々な陶器を焼くが何が一番好きかな」

「なんでも良いものは好き、昔は染付、今は織部かな。朝鮮の三島は好きだが、萩や楽は茶陶一本やりやから好きになれん。ノンコウまでの楽はいいが」

「ぼくも日本の茶道が型にはまってからのものは嫌いじゃ。でもここの三島の土はいいねえ」

「あれは朝鮮の鶏龍山で掘ってきたものだ。試験的にほしければ送ってやるが」

「それはありがたい。少し送ってほしい」 

「ところで『 陶器大辞典 』は刊行したのかね」

「ほうじゃ。『 陶器大辞典 』第一巻(昭和9年、宝雲舎)は刊行した。大変じゃった。わしの若いころから研究したメモカードをみた小野(賢一郎)さんから、個人のものにしておくのは勿体ないから辞典にしようということになり、どの項をみても読み物としてもおもしろいものにしたいということになった。じゃが、中々まとまらんのじゃ。たとえば後藤才次郎や高原五郎七とかは資料によってはみな話が違うんじゃ。到底まとまらず進展しなかった」

「まとまらんだろうね。古九谷を興した才次郎は伝説めいて違った生き方をしとるのが五人ほどいることだし、五郎七は祥瑞五郎太夫の弟子のような同一人物のような。染付磁器の功労者には違いないが…」
「ほうや、予約出版じゃもんで読者はやかましくいうてくるし、たまらんかったわ」
 唐九郎のお蔭で瀬戸窯を焚くことができ、唐九郎に一目おいた魯山人は唐九郎作品を買いはじめた。「志野なんかをずいぶん持って行った。『 値段なぞいうな』といって金くれよった。思いきって買ってくれよった」。

元星ヶ岡窯に残る半地下式窖窯
元星ヶ岡窯に残る半地下式窖窯
瀬戸窯を壊し河村喜太郎(1899-1966)が築窯した窯

昭和10年3月、川喜田半泥子の金銭的援助で尾張喜多山の翠松園に唐九郎は一家で移って窯を築いた。桃山の名品を生み出した窯の多くが、「北西へと落ちる谷に向いた山の上の方にある」と知り、この条件を満たしていたこの地を選んだのだ。翌年の11月15日の晴天、半泥子が全国の知名人を招待して天狗窯の開窯式を行った。この窯で半泥子は多くの唐津茶碗を焼いている。天狗窯の命名は半泥子である。しかし、知り合ってわずか二年半という短い期間で二人は仲違してしまった。

加藤唐九郎 唐津茶碗(1971)
加藤唐九郎 唐津茶碗(1971年)

唐九郎によれば、かの永仁二年(1294)という銘の「永仁の壷」を造ったのも天狗窯築窯の昭和11年で、翌年8月に窯出したと『 自伝 土と炎の迷路』(日本経済新聞社刊)で記している。

その昭和11年、魯山人と仲違した中村竹四郎は星岡茶寮の食器を制作する陶芸家を探さなくてはならなかった。

魯山人窯にいた荒川豊蔵に依頼したが、方向性が違うと断わられてしまった。困った中村と秦秀雄は唐九郎を訪ねた。秦は唐九郎の天狗窯の開窯式に出席しており、中村を案内するかたちで唐九郎を訪ね、よく焼きこんだ作品をみて二人は絶賛し、茶寮で使う食器を唐九郎に頼むことにした。
「魯山人の焼いたものより僕のほうがいいにきまっとる」と唐九郎は自身満々。

「こういうもんを、ああいうもん」と唐九郎作品に気を能くした中村と秦は次々と注文をした。

こうして唐九郎は茶寮から注文されたものを弟の武一と唐津、志野、織部などで制作して焼き上げ、それら沢山の器を積んだトラックで星岡茶寮へ運んだ。

ところが、「注文したものと違う。色が悪いし、こんな分厚いものは使いにくい」」と竹四郎は眉をひそめる。
唐九郎の顔色はにわかに変わり、
「そうかい! 君らは素人やから、訳がわからんことを偉そうに言うのやな」
唐九郎は茶寮の玄関でトラック一杯あった星岡茶寮用に制作した食器を持ち出して、摺こぎで片っ端からぶち壊した。

「僕もまンだ、あのころは若かった。でも、わからん奴にはそうするしかしょうがなかった」
(その後、中村竹四郎は昭和13年に水野愚陶に星岡茶寮の器を依頼した。郷土の笠原に帰った水野は実兄富平の協力を得て稲荷窯に開窯して作陶をはじめた。昭和15年5月には半泥子の指導で穴窯「笠原窯」を築いて志野などを焼いている。)


戦争の悲劇

昭和17年4月18日、米軍はドーリットル陸軍中佐率いる爆撃機B25による東京、川崎、横浜、横須賀、神戸、名古屋など本土爆撃があり、民間人も巻き込まれ、これを期に戦局は不利になっていった。ラジオがウエーブの掛かった音で、「大本営発表…日本海軍の機動部隊はアリューシャン列島を猛攻、ミッドウェー海戦で勝利」と報道しているが、じっさいは空母四隻のすべてと航空機約300機などを失い大敗していた。この大本営の発表が戦争を長引かせる要因となった。

金属回収令が出され、寺院の仏具や村人に親しまれていたお寺の釣鐘も小学校の二宮金次郎も兵士と同じように国のために応召された年である。国力の差は歴然、戦況不利な中、ここまでして戦争を続けたかったのだろうか?

魯山人に萌黄地金蘭手の器を注文した『新潟の石油王』といわれた中野家の広大な庭先の立派な銅像や観音像なども押収された。それでも陶芸界ではこの年、楠部弥弌が彩埏の技法を開発し、唐九郎がはじめての個展「志野・織部新作展」を日本橋で行っている。

昭和19年12月7日、三河大地震が東海地方を襲った。空襲警報に脅かされ、食料難にあえぐ国民の疲労は極限に達していた。翠松園の高射砲陣地周辺では電灯をつけっぱなしにして市街地と思わせていたが、アメリカの綿密な調査で小さな軍需工場も狙われた。唐九郎の四男の四郎は学徒動員していた名古屋で唯一のベアリング工場で爆死した。昭和20年、次男の裕は南支の広西省で、唐九郎窯を手伝っていた実弟の武一はビルマで戦死、フィリピンのルソン島では全滅した部隊に長男の嶺男がいた。すでに嶺男は生きては戻らないだろう、と唐九郎はあきらめていた。昭和22年1月、嶺男は奇跡的に帰国し、唐九郎を喜ばせた。

昭和19年秋、魯山人の長男福田桜一が召集令状に応じた。

関釜連絡船で釜山へ。釜山から京釜線・京義線・安奉線で満州の奉天へ出征した。

戦後、ソ連軍の捕虜となり、昭和22年10月にシベリアから桜一が一年半ぶりに復員した。

魯山人の長男・櫻一
魯山人の長男・櫻一
昭和15年(1940)9月、宝塚市十万辻にて

恰幅の良かった桜一は18貫(67キロ)以上あったが、「日ソ中立条約」を破ったソ連の捕虜となり、シベリア鉄道の枕木を敷く過酷な強制労働に服した。栄養失調となり体重は11貫目(約41キロ)とやせ細っていた。

魯山人は復員名簿に桜一の名を見た時、天にも昇るような嬉しさが込み上げてきたという。シベリア時代の捕虜生活を不憫に思った魯山人は慶雲閣に櫻一の部屋を与え、すき焼きなど上等な料理を食べさせた。魯山人窯では若先生と呼ばれ、山崎の窯場と販売店火土火土美房と一緒にした「北大路陶芸研究所株式会社」の副社長となった。ところが桜一は42才の昭和24年1月15日、無理がたたって死去した。

 戦時中の陶芸家は煙の出る登窯を焚くことができない。魯山人は航空隊のお陰で窯焚きの特別許可をもらい、戦時中でも煙突から煙を出す窯焚きが比較的自由に出来たが、民間にも戦時色が濃厚になると窯は一時休業し、漆器の制作に没頭するようになった。

山中の辻石斎、呉藤友乗親子などが協力したが、とくに尾張鳴海の薪絵師・稲塚芳朗を呼びよせて、無境庵に宿泊しながら漆工室で魯山人好みを制作した。その頃、慶雲閣前には沢山の焼損ないがあり、暇をみつけては漆で繕い、製品としたのも稲塚であった。

窯が焚けない魯山人窯主任の松島は加藤唐九郎を訪ね、粘土探しの指導をうけていた。戦後に多く焼いた瀬戸黒茶碗に使う土を探しあてている。

加藤唐九朗 瀬戸黒茶碗
加藤唐九朗  瀬戸黒茶碗


永仁の壷事件後、唐九郎は銘を入れる

 昭和25年から翌年にかけてパリのチェルヌスキー美術館と南仏ヴァロリスにて戦後初の日本美術展として『現代日本陶芸パリ展』が開催されることとなった。フランスに日本の美術を紹介するため小山冨士夫らが出品作家を選考した。

選ばれたのは北大路魯山人、加藤唐九郎ほか石黒宗麿・荒川豊藏・川喜田半泥子・金重陶陽・宇野宗甕・板谷波山・清水六和・清水六兵衛・河村蜻山・楠部彌弌・加藤土師萌・河井寬次郎・濱田庄司・富本憲吉・近藤悠三・八木一夫・鈴木治・山田光ら49人。

この日本陶芸界の作家を網羅した作品71点の世界に類を見ない日本陶芸作品は見ごたえがあったといわれている。魯山人作品の中で「柿の葉文組皿」「志野の皿」「黄瀬戸の鉦鉢」が好評だった。南仏ヴァロリスの美術館に移動して開催した時、ピカソが見にきて魯山人作品に注目、特に深い感銘を受けている。唐九郎は「織部向付」六点を出品し、これを機縁にピカソの水差しと織部作品を交換、話題となった。

昭和4年、瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任した唐九郎は、古美術の名品を改めて見る機会を知り、これ以後、道具の売りたて会がある度に自称・陶磁器研究家ということで東京や大阪、金沢などへ出かけるようになった。

唐九郎は昭和8年、宝雲舎から『 黄瀬戸 』を処女出版した昭和9年7月に『 陶磁大辞典 』を著した。東京の美術出版兼美術陶器を販売していた宝雲舎(社長・小野賢一郎)から発行したものだ。

昭和16年、『 陶器大辞典 』は初版の増補改訂版ということで全六巻を整理縮小して一巻にまとめ、全六巻で完結させた。

ここに唐九郎は原色版で織部「獅子香炉」や仁清作「若松の壷」と一緒に松留窯の「柳文花瓶」や「永仁瓶子」など六点が掲載した。あの『 永仁の壷 』の原色版の解説には鎌倉時代『 瀬戸瓶子 』とあり、「‥‥鎌倉時代末期、蒙古大軍が我国に襲来した弘安の役の直後にあたり、陶芸が衰微の極に達したこの時期の作としては非常に珍しい。また、瀬戸の陶器にある年銘では、現在知られている中の最古のものである」と解説したのである。
 昭和35年、《永仁の壺》問題起き、日本陶磁協会と日本工芸会の理事、審査員などすべての公職を辞任した唐九郎は作陶に専念する。

翌年、漢学者服部担風より「一無斎」の号を贈られ、作品に「一ム才」の銘を用いた。

昭和44年正月、『鬼が島』を窯出した。鬼板を化粧掛けした鼠志野にみえるが、土そのものに鉄分が多く含まれている画期的な手法で、「志野茶碗に対する技の継承と発展に確信を得た」と述べた。

加藤唐九朗 志野茶碗「一ム才」
加藤唐九朗  志野茶碗「一ム才」

その後、「 月白 」「鉄志野」そして「 紫匂 」など創意創作を重ねて、桃山志野とは決定的な別れをつげた唐九郎独自の志野を発表していった。とくに昭和54年の「紫匂」は、いち早くガス窯を導入して晩年の唐九郎の柔軟性をも感じることができる作品であった。「志野であれだけのものを見たことがない」と大絶賛した立原正秋が「紫匂ひ」と名付けて話題となった。
昭和37年、『やきもの随筆』(徳間書店)、47年には『原色陶器大辞典』(淡交社)が刊行された。当時の古美術愛好家の虎の巻となった。51年、(財)「翠松園陶芸記念館」設立。55年、『陶器大辞典』全六巻(五月書房)復刻刊行。ほかに54年『紫匂ひ』(立原正秋と共著)、56年『私の履歴書』等がある。

21歳の時、『 鯰皿 』を制作し、“瀬戸加藤唐九郎造”と初めて銘を入れた。その後、銘を入れるのをやめていたが、永仁の壺事件以後、本多静雄に「銘は入れるべきだ」といわれてからはいれるようになった。“TK”“一ム才”“陶玄”“野陶”などの銘を用いて志野、瀬戸黒、織部、黄瀬戸、唐津、高麗、伊賀、信楽など豪快で気迫あふれる作風で一世を風靡した誰もが認める名匠となった。70年に及ぶ作陶生活を送り、数々の名作を残して、昭和60年12月24日に88歳で永眠した。(魯山人が没して26年後であった。)

魯山人の星岡窯(ホシガオカガマ)には昭和2年に築いた五袋の京風登窯と同9年に築いた瀬戸風登窯(五袋)があったが、晩年は備前焼に力を入れた。「無釉の陶器のなかで備前は群を抜いて美しい」と備前土に惚れて昭和27年、備前の登窯(三袋)を金重陶陽と藤原建の協力で築窯した。備前土で成形した櫛目花瓶やススキを彫りこんだ四方平鉢などが作られた。何度か焼くうちに景色の少ない備前焼作品が無境庵案の軒下に集められていた。これに銀彩を施して錦窯で焼成した画期的な作品が出来上がり、晩年の代表作となった。制作過程においても焼成法も難しく、本場備前では考えもつかないことだった。

北大路魯山人 備前平鉢
北大路魯山人 備前平鉢
北大路魯山人 銀彩平鉢
北大路魯山人 銀彩平鉢

また信楽の古壷や李朝の扁壷などに直接、石膏をぬり、鋳込の型を造り、その型から取り出した素地の口などに箆を入れた後、信楽壷には灰を掛け登窯の上段に置いて焼成した。中には櫛目を施し、櫛や箆でアヤメ文を彫りつけ総織部を掛けたもの、鉄絵で秋草や昆虫を描がいた絵瀬戸風壷や銀彩を施したものなどがある。扁壷は栗の実に見立て、大胆に絵や詩文を描いて独特の扁壷に変身させる。
また型轆轤も使用するが、そのまま作品とはせず、箆などで削り、魯山人作品に仕上げるなど多才な陶技を発揮する創作意欲が随所に伺われる晩年であった。

鋳込み(いこみ)鉢
鋳込み(いこみ)の型

晩年の鋳込みは磯村四郎、型轆轤には松平勝三が担当している。

松平は、「山人(魯山人)が少し手を加えることで、きりっとした口や肩辺りに力強さがでてくる。そのわずか1%が、大事なことなんだ」と、一手間かければ芸術品になる魯山人の力を痛切に感じたという。

磯村は唐九郎の友人の息子である。瀬戸の五助工場の工場長をやっていた技術者で、すべてを機械化して人間の手無しでやろうとしていた。魯山人窯では事務的なこともやり、魯山人が亡くなってから、逗子の葉山で町会議員(社会党)をやっていた。
 魯山人は全てに独学で師匠を持たなかったことを、「師に縛られないから、幸いだった」といい、「焼くことは宮永東山と唐九郎に教えてもらった」と語っている。

古陶磁の目利きでもあった魯山人は内外の古陶磁や古美術を座辺に蒐め、これを堪能した。

「名器を見て学ぶ態度を修業の第一と考えねばならぬ。それが僕の作陶態度だ」と、これらを師に魯山人にしか出来ない閃きをもって創作に徹し、昭和34年12月21日76歳で永眠された。

神奈川県立近代美術館「イサム・ノグチ展」
神奈川県立近代美術館「イサム・ノグチ展」

「イサムさんの頭はいつも仕事のことでいっぱいでした」と、妻の山口淑子は新婚生活時代を語っているが、この新婚時代を過ごしたのは魯山人の田舎家であった。昭和27年(1952)秋、神奈川県立近代美術館での「イサム・ノグチ展」には魯山人窯での作品や金重陶陽窯で焼かれた作品が大半をしめた。その後、”あかり”をテーマに越前和紙を使っている。

魯山人亡きあと、昭和49年(1974)、千代田区隼町にある最高裁判棟特別会議室の中庭に据える蹲噴水6基をイサム・ノグチが制作した。

この年、唐九郎とイサムノグチが越前にて出会う。

越前には唐九郎が設計指導した越南窯ある。その昔、大きな窖窯で焼成したが、時間や労力、そして燃料の薪の消耗が激しいところから陶工たちは悩んだ末、瀬戸本業窯の窯元が完成させたという幻の窯を唐九郎が登窯「越南窯」を再現した。

唐九郎曰く、「イサム・ノグチは、感性の豊かな男じゃった」と。 

                
魯山人と唐九郎 上下-完-





☆★☆


魯山人「大雅堂」「美食倶楽部」発祥の地

魯卿あん Rokeian』

〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9

TEL: 03-6228-7704

営業時間:11:00~18:00(日・祭日休)


☆★☆


無二の個性豊かな陶芸家とともに歩む

しぶや黒田陶苑』 

〒150-0002 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F

TEL: 03- 3499-3225