黄金の黄瀬戸に挑む
13世紀の鎌倉時代初期には中国宋代のやきものへの憧れから瀬戸では[青磁]に倣って古瀬戸を焼いている。
[青磁]は還元焼成だが、瀬戸ではやや酸化焼成だったためか、粘土の違いか薄淡黄色の透明性の強い釉調となった。印花壺や瓶子、茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといわれ、平安時代から室町初期頃まで焼かれていた。これが室町末期、瀬戸から山を越え美濃に移動した陶工たちによって「黄瀬戸」が生み出された。
黄瀬戸には堺の豪商で茶匠の北向道陳とその弟子・千利休好みの「ぐい呑手」と、その後、古田織部が好んだ「あやめ手」ともいう「油揚手」、さらに慶長以後、登窯で大量に焼かれた「菊皿手」の三種類があるといわれている。

「古作を咀嚼してこそ新意発想あり」と、稀代の芸術家・北大路魯山人は織部好みの『油揚手の黄瀬戸』を再現しようとした。
しっとりとした肌が美しい油揚手が焼かれたのは美濃久々利大萱にある牟田ヶ洞、中窯、浅間(せんげん)窯。なかでも井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢や「宝珠香合」など油揚手の名品が焼かれたのは天正時代から慶長時代の初期に稼働した窯下窯だけといわれ、ここには2窯が稼働していた。面白いことにいわゆる志野茶碗も焼いているが名品は少ない。ところが鼡志野茶碗の名品中の名品「峯の紅葉」や「山端」が焼かれていた。それ故、「窯下窯」は久々利でも独特の窯だった、といえそうだ。
魯山人はこの古窯址を発掘調査し、黄瀬戸は特有の湿気がある土の中に埋まる穴窯で焼かれていたことを突き止めた。ところが山崎の星ヶ岡窯は湿気を嫌う地上式の連房式登窯である。
通常、黄瀬戸作品に灰が被らぬように匣鉢に入れるのだが、魯山人は匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢を何段か入れて焼くことにしたのだ。結果的に下段にある匣鉢の濡れた土から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができた。

格調高い釉景を創り上げる織部好みの『油揚手の黄瀬戸』は、”油揚手、焦げ、抜け胆礬”その三拍子揃っている。
桃山時代、わずかしか焼成されていなかった‥‥
窯下窯で文禄二年の年記がある黄瀬戸の陶片を発見した加藤唐九郎をはじめ、唐九郎長男の加藤嶺男(晩年に岡部姓)、そして魯山人ら多くの陶芸家が挑みながら、”油揚手、焦げ、抜け胆礬”という三拍子揃った黄瀬戸に挑むが、その多くは透明性のある黄瀬戸となって満足する作品が少なかった。その陶工泣かせの焦げや銅緑色のタンパンを再現することが昭和時代の美濃陶工にとっての夢だった。

軸装:奥村土牛「無一物」
この油揚手の小さな陶片を、美濃山中の窯下窯で見つけられた周海は、その美しさに感動されたことで難関の油揚手に孤軍奮闘しながら挑まれ、私も油揚手の良いものをと後押ししました。
‟群れずに独尊を貫いた陶芸家Ⅴ” として数回に亘って各務周海先生のことをご紹介させていただきたいと思っております。
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桃山陶工が志野と同じ百草土を使って身近な材料で調合したであろう黄瀬戸釉。
周海先生は恵那の栗の樹皮を剥がした栗皮灰をベースとして使って、失敗を繰り返されながら、桃山の名品と遜色ない「黄金の黄瀬戸」を効率の悪い穴窯で高温焼成して再現された。叩くと磁器のような音がするほどに。

岐阜県南東部の恵那で作陶する各務周海は化学的な調合を好まず、地元恵那特産の栗皮灰と共土を釉薬として使った。出会った時は透明感のある黄瀬戸を焼いていたが、油揚手の焦げ・抜け胆礬を推し進め、何度も失敗を繰り返しながら、黄金の黄瀬戸を執念で成功させたのである。

恵那の栗きんとん(魯山人 絵瀬戸小皿)






