鯖江 桑原家「あめや」 篆刻看板「呉服」(大正2年作)
「鯖江にも芸術を解する風流人がおる。古美術も扱う煎茶人の窪田喜三郎だが、号は圓通菴、 なぜか『朴了軒』と人は呼んでいる方だ。 」と河路豊吉から聞いた大観と号していた魯山人。
大正二年 、鯖江の駅を降り、鯖江東小路の煎茶人・窪田喜三郎のいる 料理旅館 『東陽館』へ行った。東陽館の勝手口から階段を上る。珍しい竹の手すりがあり、その感触を楽しみながら上がると、客間へは池を見ながら渡り廊下でつながっていた。
朴了軒は河路と同じような芸術愛好家である。 子供の頃から質札の古美術品に親しんでいた朴了軒は明治元年二月生れ。 越前鯖江の中小路町で大きな質屋『東屋』を営んでいた朴了軒は監札なしで美術品も商っている。 とくに書画、篆刻に名高く、関西における文人墨客の指導的立場にあった頼山陽(安永九年~天保三年)の鑑定に権威を示していた。漢文学、日本外史、日本政史、のちに「勤王運動の父」として取りざたされた頼山陽は広島藩を追われ、永い隠遁生活を強いられた。その後、福井浜町で知り合った二人は支那事変がらみの友情をえていた。
朴了軒の東陽館の近くに誠照寺(じょうしょうじ)という大寺がある。 鯖江の寺町通りに面した誠照寺は 西本願寺派の真宗誠照寺派の本山で大きな屋根の瓦が立派だ。この瓦は越前焼で名高い宮崎村の登窯で焼いた「越前赤瓦」、境内の敷石には東陽館でも使っていた笏谷石(しゃくだにいし)を敷き詰めている。
そのお寺の門前にあったことで元禄年間より参拝客相手に飴屋を営んでいたことから、『あめや』という屋号の桑原呉服店は創業百年の老舗だ。
店の前の通りは寺町通りで、南には全山古墳といわれる小高い王山がみえる。 あめや主人の桑原甚六は江戸末期の慶長生れの五十歳であった。 落差の大きい足羽川上流の地形を利用した持越水力発電所の建設を推進した発起人で、今立郡に電灯と電力の双方を供給した。 また鯖江から粟田部村を結ぶ電気鉄道敷設の計画を発議するなど、 域の活性化に尽力し、福井県県会議員も務めた。 桑原は書画骨董など美術品に関心が深く、その情報源である朴了軒とは近所付きあいだけでない深い交流があったのだ。 こうして朴了軒から「篆刻師」と紹介された大観は、桑原に創業百年を記念して『呉服』という看板を依頼された。
江戸末期の文政6年(1813)、飴屋から江戸末期には呉服屋を創業した。大正2年(1913)、桑原甚六(1867~1936)は「あめや」呉服店の初代となり、店舗兼住宅を建てた。
朴了軒のところに一月ほど逗留しながら、「あめや」へ通い、 彫琢看板を仕上げるため横二、五㍍、縦一㍍ほどの欅板を見つけ、あめやの二階を仕事場として借りた。 大観は下書きなしで彫りはじめる。 桑原あめやの「呉服」は、草書の筆順に従い、平鑿を垂直に使って荒々しく雄渾に彫琢した。
底は叩き彫りして荒々しくみせ、中央を浮き彫りにする菱彫りで仕上げている。 左隅には「大正二年菊花月 属桑原老舗創業百年記念大観作」と筆書きの流れそのものに彫りあげたのである。
(このあめや『呉服』の彫琢看板は軒下に掲げられていたため風雪に弱い欅板は舟板のように風化してしまった。 現在では店内に飾られている。当代は7代目の桑原重之氏で呉服創業二百年近い老舗を守っている。)
河路の紹介で窪田朴了軒と出会い、鯖江や福井での仕事を一段落させた大観は、 卜了軒へお礼の気持ちを込めて「卜了軒」と草書で篆刻して濡額とした。
長浜安藤家 篆刻看板「呉服」(大正6年作)
魯山人は近江長濱を皮切りに京都、北陸での食客時代という篆刻や刻字看板などの仕事を「大観」と号してから3年経った大正5年(1916)、33歳となり、『北大路魯卿』と号するようになった。
現存する最大級の魯山人篆刻看板は長浜安藤家が所蔵する「呉服」である。
中村呉服店は明治26年(1893)に中村合名会社を設立。大正2年(1913)秋、福島の代表社員・安藤與惣次郎が店舗を荒町から県庁、警察署の近くにある福島市大町へ拡張移転させた。この新店舗に掲げる「呉服」の看板を魯卿へ注文していた。
大正6年秋、與惣次郎からの連絡を受けた魯山人は福島に到着し、中村合名会社の船場町倉庫に向かった。
與惣次郎が用意した15尺の板は蔵王連峰の南麓にある七ヶ宿の産で、よく自然乾燥させてある立派な欅だった。魯卿は板の隅を鋸で仰ぎ落し、表面に鉋をあてて整えて巾417㌢×高さ96㌢とした。厚みのある木裏には反らないように枘(ほぞ)をいれ、保護のために裏板を合わせた。
ここ数年、多くの篆刻看板を残しているが、書家に書かせ、それに副って彫るほかの彫師とは違い、自らの書を意のまに彫り進む己の道を見つけた魯卿は持参した鑿などの道具を拡げ、
「呉」の字は亀に「服」の字は鶴に似せた「鶴亀書体」で揮毫した擦れもそのままに臨場感をも表現しながら平鑿で字の縁を抉るように深く彫り込み、底は丸鑿をつかって船底風に盛り上げ、文字を際立させる陰刻に彫琢して店の繁栄を願った。
右肩には巾の狭い平鑿で「生祥」(祥を生す)と入れた。
生祥とは吉兆をおこす、めでたい兆しが生じることを意とした引首印として彫っている。
さらに左隅には「中村合名会社属 魯卿山人作」と彫り、その下に13.5㎝角の落款印のように「大觀」と篆刻した。
おとなしい木目の余白を活かした魯山人の息遣いをも感取できる「呉服」の豪放な彫琢で、最後に金属を思わせるかのように緑青で仕上げている。
中村呉服店の創業は天保元年(1830)で、中村家は安藤家とともに全国で八番目の合名会社「中村合名会社」を興したのは明治26年(1893)のことである。
12代安藤與惣次郎は、大正2年(1913)、福島店が業績良好にして荒町から新店舗を大町(福島市大町58)に新築移転する。
1935年(昭和10年)10月には中村合名会社から株式会社中合へ改組して百貨店の仲間入りをする。
さらに「中合」は大町から駅前進出を果たした昭和48年、時の社長・13代安藤順造の言葉で、
「魯山人が福島にきたとき「呉服」と一枚板に彫ってもらった。これがもとの店の呉服売場にかけてあったんです。その後、度重なる改装などで、今まで倉庫にしまっておいたんですが、こんどまた呉服売場にかけることにしたので、ぜひご覧願いたい。」と。
‥‥大正元年の初夏、『鴨亭』と号していた29歳の魯山人は朝鮮中国の旅を終えて帰国し、その後は「大観」と号して食客時代の長浜・福井・山代・京都などで多くの篆刻看板を残しているが、『大観』銘は大正7年までであり、大正8年以後には「大観」銘は皆無となっている。
中村合名会社の「呉服」には制作年の記載がないので、大正2年作、大正4年作、はたまた大正11年作などといわれている。大正2年、4年はまだ魯卿とは名乗っていない。大正8年からは魯山人だから大正11年 ではない。
この「呉服」と同じ『魯卿山人』の彫名があるのが、京都の源田紙業の「元祖 御水引老鋪」。落款は「戊午孟春為源田善右衛門君魯卿山人作」「北大路氏」「大観」の印。ここにある戊午孟春は大正7年1月のこと。
安藤家の「呉服」は小蘭亭の二双扉にある「大正丁巳初夏北大路魯卿臨書並刻」と同年の大正6年の晩秋に福島船場町の倉庫での制作だと思われる。
大正8年(1919)に彫琢した谷崎潤一郎の『潤一郎』(銘:魯山人)、下郷伝平の『仁者寿』(己未嘉年月 魯山人 魯卿)、八代目小川治兵衛『夢洞』(魯卿 魯山人)などの濡額の銘は「魯山人作」となっている。このことからも大正11年の作ではないのは明らかである。
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